芥川

51
風が木々を揺らした。清涼殿に初夏の香りが吹き込む。
「私は日本を誰もが住んでよかったという国にしたい。それには国民の声をよく聞くことだ。そのためには参議以外の者にも自由に意見を言ってもらいたいのだ。それで今日はわざわざ地方の政治に明るい者にも集まってもらった。皆遠慮せず意見を述べてもらいたい」
清和天皇がよどみなく詔勅を下した。まだ十二歳だが、見ていて安心感がある。紀今守(きのいまもり)は感動した。自分のような低位の者にまで直接言葉をかけ、意見を聞いてくれるとは、考えられないことであった。今守は自分が国司をしている山城の実情を詳しく説明した。右大臣の藤原良相だけでなく、清和天皇まで、熱心に聞いてうなずいている。
議事の後、宴になった。恐い顔をした伴善男が酒を注いで回った。今守のところへもやってきた。
「中納言殿に注いでいただくなど滅相もありません」
「まあ、そう言わずに」
善男は恐い顔のまま酒を注ぎ、そのまま話しこんだ。
「これからの政治にはあなたのような国司が必要だ」
善男は荘園を何とかなくしたいと言った。今守も同意見だった。
「あれがあるから、武士が調子に乗って困ります」
「そうだ。武士が力を付けて、公卿に力を貸すから、世の中がおかしくなっておる。こういう奴が幅を利かせているんだ」
善男は酒を注いで回る良相の袂を引っ張った。
「何言っているんだ。私は荘園をなくして、藤原政治を終わらせようとしているんだぞ」
「そうだ、藤原政治は終わらせなければならん。君、そうだろ?」
今守は返答に困ってへどもどした。
「あ、ごめんなさい」
若い女房が善男につまづいた。その拍子に折敷に乗せた料理を善男の上に落としてしまった。
「ああ、何をやってるんだ!」
「申し訳ありません。今お着替えをお持ちします」
若い女房は着替えを持って来た。
「しかしここで着替えるわけにもいかないなあ」
善男は途方に暮れていた。
女房は困り果て、着替えを持ったまま立ちすくんでいた。
もう一人の女房が駆けてきた。
「中納言様、さあ、こちらへどうぞ、私がお手伝いいたします」
善男はその女房に手を引かれ、奥に行った。
「すみません」
若い女房は申し訳なさそうに頭を下げた。頭を下げる直前に舌を出した。善男を連れて行った女房は片目をつぶった。しかし二人のこの妙な仕草に気づいた者はいなかった。
善男は女房に言われるまま、蒲団の横で汚れた服を脱いだ。その肌を女房は丁寧に拭いていった。拭くたびに髪や吐息がそっと善男に触れる。よく見ると女房は夏のせいか薄い衣服を着ていた。善男はいつの間にか女房の服に触れていた。女房は何も言わなかった。
「右大臣様」
粗相をした若い女房が耳打ちした。
「何だ」
「中納言様は所用のためご帰宅なさったそうです」
良相は何も言わずににやりと笑った。
善男は蒲団の中で蝋燭の灯を見ていた。そう言えばまだ名前を訊いていないことに気づいた。
「あなたの名は?」
「若狭です」
横向きになった善男の目を見て、若狭はにっこりと笑った。
「私の名などお聞きになって、忘れずにいてくださるのですか」
善男は若狭の体をしっかり抱いた。
「忘れなどせぬ。若狭こそ、私のことを忘れずにいてくれるか?」
「当たり前ですわ」
「私は日本を誰もが住んでよかったという国にしたい。それには国民の声をよく聞くことだ。そのためには参議以外の者にも自由に意見を言ってもらいたいのだ。それで今日はわざわざ地方の政治に明るい者にも集まってもらった。皆遠慮せず意見を述べてもらいたい」
清和天皇がよどみなく詔勅を下した。まだ十二歳だが、見ていて安心感がある。紀今守(きのいまもり)は感動した。自分のような低位の者にまで直接言葉をかけ、意見を聞いてくれるとは、考えられないことであった。今守は自分が国司をしている山城の実情を詳しく説明した。右大臣の藤原良相だけでなく、清和天皇まで、熱心に聞いてうなずいている。
議事の後、宴になった。恐い顔をした伴善男が酒を注いで回った。今守のところへもやってきた。
「中納言殿に注いでいただくなど滅相もありません」
「まあ、そう言わずに」
善男は恐い顔のまま酒を注ぎ、そのまま話しこんだ。
「これからの政治にはあなたのような国司が必要だ」
善男は荘園を何とかなくしたいと言った。今守も同意見だった。
「あれがあるから、武士が調子に乗って困ります」
「そうだ。武士が力を付けて、公卿に力を貸すから、世の中がおかしくなっておる。こういう奴が幅を利かせているんだ」
善男は酒を注いで回る良相の袂を引っ張った。
「何言っているんだ。私は荘園をなくして、藤原政治を終わらせようとしているんだぞ」
「そうだ、藤原政治は終わらせなければならん。君、そうだろ?」
今守は返答に困ってへどもどした。
「あ、ごめんなさい」
若い女房が善男につまづいた。その拍子に折敷に乗せた料理を善男の上に落としてしまった。
「ああ、何をやってるんだ!」
「申し訳ありません。今お着替えをお持ちします」
若い女房は着替えを持って来た。
「しかしここで着替えるわけにもいかないなあ」
善男は途方に暮れていた。
女房は困り果て、着替えを持ったまま立ちすくんでいた。
もう一人の女房が駆けてきた。
「中納言様、さあ、こちらへどうぞ、私がお手伝いいたします」
善男はその女房に手を引かれ、奥に行った。
「すみません」
若い女房は申し訳なさそうに頭を下げた。頭を下げる直前に舌を出した。善男を連れて行った女房は片目をつぶった。しかし二人のこの妙な仕草に気づいた者はいなかった。
善男は女房に言われるまま、蒲団の横で汚れた服を脱いだ。その肌を女房は丁寧に拭いていった。拭くたびに髪や吐息がそっと善男に触れる。よく見ると女房は夏のせいか薄い衣服を着ていた。善男はいつの間にか女房の服に触れていた。女房は何も言わなかった。
「右大臣様」
粗相をした若い女房が耳打ちした。
「何だ」
「中納言様は所用のためご帰宅なさったそうです」
良相は何も言わずににやりと笑った。
善男は蒲団の中で蝋燭の灯を見ていた。そう言えばまだ名前を訊いていないことに気づいた。
「あなたの名は?」
「若狭です」
横向きになった善男の目を見て、若狭はにっこりと笑った。
「私の名などお聞きになって、忘れずにいてくださるのですか」
善男は若狭の体をしっかり抱いた。
「忘れなどせぬ。若狭こそ、私のことを忘れずにいてくれるか?」
「当たり前ですわ」