芥川

芥川
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53

 貞観八年、春。宮中で管絃の催しが執り行われた。
「高子姫から女御様へのご伝言でございます。お招きありがとうございますとのこと、よろしくお伝え願います」
 若狭が多美子に仕える女房に挨拶した。若狭は皇太后明子に仕えていたが、今日はかつての主人高子の世話に当たっていた。宮中のあちらこちらを忙しく歩き回る若狭を伴善男が呼び止めた。
「若狭」
「大納言様、何かご用ですか」
 善男はこの年大納言に昇進していた。
「今夜は大丈夫なんだろうな」
 若狭と最近会えなかったので、善男は不満そうだった。
「もちろんです。戌の刻にいらしてくださいませ。ところで、大納言様は、高子姫に会われたことがございますか」
「ない」
「あちらのお部屋にいらしていますわ。何かお伝えいたしましょうか」
 善男は冗談のつもりで言った。
「あなたは恋の達人と伺っておりますから、どうか今夜私に手ほどきを願いたいとでも伝えてくれ」
「かしこまりました」
 若狭が真面目な顔で答えるので、善男は慌てた。そんなことを言われたら困る。
「若狭、待て、今のは冗談だ」
 しかし頭をすばやく上げた若狭はもう人波の向こうに消えていた。
「若狭、若狭」
 しばらく善男は若狭を探したが、やがてあきらめて良相の隣に座った。
「良房が復活したな」
 良相は染殿での観桜のことを言った。
「はい。意外でした。しかし百花亭での観桜の直後に行うとは」
 百花亭とは良相の邸である。そこで清和天皇も行幸して盛大な花見が行われた。すると体調がすぐれず引きこもっていた良房が染殿に清和天皇を招き、これも盛大な花見を行った。
「いやな感じだ。実にいやだ。奴め、いったい何を考えているんだろう」
「ごもっともです。私が何か動きましょうか」
「しかし下手に動くとまずい」
 そこへ若狭が戻ってきて善男に耳打ちした。
「今夜お逢いするそうです」
 若狭の甘い息が心地よい。
「しかし……」
「私のことはお気になさらないで。戌の刻、私の局においでください」
「だって……」
 もういなかった。良相がいぶかしがった。
「どうした?」
 善男は取り繕った。
「いや、その、困った奴でして」
 良相も善男と若狭の関係は知っていたので、怪しみはしない。
「まったく、こんな大事なときに女の方が大事なんだからな、大納言殿は」
「滅相もない。……ところで、殿、どうでしょう。さっきの話ですが、一つ私が探りを入れてみましょうか」
「何だ。当てでもあるのか」
「まあ、ちょっと」
 善男はうまくいけば高子から何か聞き出せるかもしれないと踏んでいた。幸運が来るときは続けざまだな。善男は心の中でにんまりした。
「じゃあ、頼んだぞ」
 上総が若狭に着付けてもらっていた。美しかった。どう見ても上流階級の娘だった。
「若狭」
 押し殺した声だった。
「お待ちいたしておりました」
 若狭が迎えに出た。善男は奥に通され驚いた。これが高子姫かと思った。以前自分に料理をこぼした女房だとはまったく気づかなかった。ましてそれが上総という名であることもまったく知らなかった。若狭は出て行った。善男は年甲斐もなく夢中になった。しがない地方官から出世して、まさか太政大臣の養子を知ることになるとは思いもしなかった。しかも本当なら今頃天皇に嫁していたはずの女をである。
「高子様、かたじけのうござります」
 これが善男の最盛期だった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日