芥川

54
宮中での管絃の催しが終わった。信は早く自邸に戻りたかった。どうも最近宮中は居心地が悪い。良相と善男の国政改革は異例の速さで進行している。善男は大納言になりますます態度が大きくなった。良房は体調が戻ったということで宮中に出て来るようになったが、かつての勢いは感じられない。基経も大人しくしている。これはどう考えても良相の舞台だ。良相側の者たちは威勢がいい。良房側の者たちは息をひそめている。
上総と過ごしたかった。
「上総はどこにいる?」
「ご気分が悪いということで先ほどお帰りになりました」
女童が事情を説明した。上総が高子になりすまして信の嫌いな男と一緒にいるとは知るよしもない。
「そうか、それでは私も帰るとしよう」
信は上総を心配した。早く顔を見て容態を確かめたかった。
上総の局の奥は高子の局に割り当てられていた。そこから女童が出てきて、信の女童に相談し始めた。信は二人が話し終わるのを待っていた。奥から琴の音が聞こえた。高子だろう。確かな演奏だった。
「殿」
信はいつの間にか話を終えて近づいた女童を見た。
「どうした?」
「高子様が殿に歌を見てほしいとおっしゃっているそうですが、今日は遅いからまた後日の方がよいとお答えした方がよいでしょうか」
女童は困っていた。早く上総のところへ戻り、世話をしたいからだ。と、そのように信は見た。
「そうだな、高子様には申し訳ないが、私は家に戻らねばならない。明日にでも良房様のお邸に伺うと言ってくれ」
女童はまた話に行った。すぐに戻ってきた。
「良房様のお邸では、高子様のお部屋に殿方は入れないのだそうです。歌の上手な殿が近くにいらっしゃるので、あてにしていたそうでして、今日お教えいただけないことを大変残念がっていらっしゃいます」
「そうか……」
気持ちの優しい信は高子が気の毒に思えてきた。
「歌はたくさんあるのか」
「いえ、二、三首だそうです」
信の顔が明るくなった。
「何だ、そのぐらいだったらすぐ済むだろう。今行くと伝えてくれ」
女童の顔がほころんだ。
「ありがとうございます」
高子の女童が案内した。灯台が明るかった。信が顔を出すと、中の女は琴を弾くのをやめた。若狭だった。上総の着替えをしたあと、ここへ戻り、女童に着付けてもらったのだ。見違えるようだった。上流階級の令嬢としか見えなかった。美しかった。高子はすでに良房の邸に戻っていた。
「高子様、お一人のところへお邪魔いたしまして、大変恐縮いたしております」
「私こそ、帰り間際にお呼び立ていたしまして、本当に失礼いたしました」
信は感慨深かった。まさか高子とこのように直接話をすることがあるとは思ってもみなかった。
「この歌を見ていただきたいのですが」
信は中に入った。
「殿のお歌も拝見したいですわ」
信は一首披露した。一首が二首になった。二首が三首になった。
何度か信は暇乞いする機会を逸した。そのたびに高子の見せた悲しげな表情が信の決心を鈍らせたのだ。
「私は将来が不安です」
いつしか高子はそんなことを話していた。それはもっともなことだった。入内はできず、庇護者の良房は高齢で病気がち、政権の中枢は良相に移り、弟の基経も勢いがない。
「左大臣様のような方が私にもいてくれたら」
高子の訴えるようなまなざしに心が乱れた。あとは自己弁護だった。良房もきっと許すだろう。許すどころではない。感謝するだろう。それに、これで良房の後継として政権を手に入れられるかもしれないぞ。
上総と過ごしたかった。
「上総はどこにいる?」
「ご気分が悪いということで先ほどお帰りになりました」
女童が事情を説明した。上総が高子になりすまして信の嫌いな男と一緒にいるとは知るよしもない。
「そうか、それでは私も帰るとしよう」
信は上総を心配した。早く顔を見て容態を確かめたかった。
上総の局の奥は高子の局に割り当てられていた。そこから女童が出てきて、信の女童に相談し始めた。信は二人が話し終わるのを待っていた。奥から琴の音が聞こえた。高子だろう。確かな演奏だった。
「殿」
信はいつの間にか話を終えて近づいた女童を見た。
「どうした?」
「高子様が殿に歌を見てほしいとおっしゃっているそうですが、今日は遅いからまた後日の方がよいとお答えした方がよいでしょうか」
女童は困っていた。早く上総のところへ戻り、世話をしたいからだ。と、そのように信は見た。
「そうだな、高子様には申し訳ないが、私は家に戻らねばならない。明日にでも良房様のお邸に伺うと言ってくれ」
女童はまた話に行った。すぐに戻ってきた。
「良房様のお邸では、高子様のお部屋に殿方は入れないのだそうです。歌の上手な殿が近くにいらっしゃるので、あてにしていたそうでして、今日お教えいただけないことを大変残念がっていらっしゃいます」
「そうか……」
気持ちの優しい信は高子が気の毒に思えてきた。
「歌はたくさんあるのか」
「いえ、二、三首だそうです」
信の顔が明るくなった。
「何だ、そのぐらいだったらすぐ済むだろう。今行くと伝えてくれ」
女童の顔がほころんだ。
「ありがとうございます」
高子の女童が案内した。灯台が明るかった。信が顔を出すと、中の女は琴を弾くのをやめた。若狭だった。上総の着替えをしたあと、ここへ戻り、女童に着付けてもらったのだ。見違えるようだった。上流階級の令嬢としか見えなかった。美しかった。高子はすでに良房の邸に戻っていた。
「高子様、お一人のところへお邪魔いたしまして、大変恐縮いたしております」
「私こそ、帰り間際にお呼び立ていたしまして、本当に失礼いたしました」
信は感慨深かった。まさか高子とこのように直接話をすることがあるとは思ってもみなかった。
「この歌を見ていただきたいのですが」
信は中に入った。
「殿のお歌も拝見したいですわ」
信は一首披露した。一首が二首になった。二首が三首になった。
何度か信は暇乞いする機会を逸した。そのたびに高子の見せた悲しげな表情が信の決心を鈍らせたのだ。
「私は将来が不安です」
いつしか高子はそんなことを話していた。それはもっともなことだった。入内はできず、庇護者の良房は高齢で病気がち、政権の中枢は良相に移り、弟の基経も勢いがない。
「左大臣様のような方が私にもいてくれたら」
高子の訴えるようなまなざしに心が乱れた。あとは自己弁護だった。良房もきっと許すだろう。許すどころではない。感謝するだろう。それに、これで良房の後継として政権を手に入れられるかもしれないぞ。