芥川

芥川
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 灯台の灯をいつまでも見ていた。身体の柔らかい感触と匂いが心地よかった。
「高子様、このようなことを伺うのも大変失礼ですが、良房様はいかがでありましょうか。長らくご政務をお休みしていらっしゃいましたので、心配いたしておりました。ご子息の基経様も以前と比べると勢いがないような気がいたしております。何かお変わりがあるのでしょうか」
 高子(上総)は顔を横に向けた。
「ご心配ありがとうございます。義父(ちち)はすっかり元気でございます。殿とはこのような間柄になりましたから、一度ぜひ義父のところへお越し願いたいと思います。基経は以前とまったく変わっておりませんわ」
「ありがとうございます。私も一度ぜひ良房様にご挨拶申し上げたいと思います。私のような者があなた様とご結婚できるなど、まったく夢のような……」
 高い声が遮った。
「そうだわ! 基経の変わったことと言えば、何でも明日の朝早くに応天門のところで左大臣の源信様にお目にかかることになっていると、いつになく高ぶった様子で私に話していましたわ」
 伴善男は興奮した。
「それは確かでございますか。さて、それは一体何のためでしょうか」
 高子(上総)は笑った。
「それはわかりませんわ。女が立ち入ったことに口を出すと兄はすぐ怒りますので、何も聞きませんでした」
 善男は必死になった。
「お願いいたします。どんな小さなことでも結構ですので、何か思い出していただけないでしょうか」
「そう言われましても、本当にそれ以上のことは言ってなかったのですのよ」
 高子は善男にしがみついた。
「そんな話はもうやめましょうよ。もしお知りになりたければ、大納言様が明け方に応天門の陰でお聞きになったら」
 善男は高子の言うとおりだと思った。明け方に自分の耳で確かめるのが一番よい方法だった。心が決まるともう一度高子がほしくなった。
「大納言様」
 善男は目を覚ました。高子(上総)が上からのぞき込んでいた。肌が白かった。
「もう朝か」
「よろしいのですか、お起きなさらなくても」
 善男は思い出した。
「そうだった。応天門に行かなければ」
「そう思ってお起こししたのです。でも、別に行かなくてもいいですわ。ここでもう少しお休みになったら」
 善男は跳ね起きた。
「いや、そうは参りません。どちらにしてももう起きねば。今日は良房様のところへご挨拶に伺います。誠に申し訳ございませんが、私はこれで失礼いたします」
「わかりました。また義父のところでお逢いしましょう」
 高子(上総)は居住まいを正して見送った。
 鳥と烏の鳴き声がひっきりなしに聞こえた。辺りはまだ暗かった。風が強い。身体が冷えてきた。善男はあちこちさすった。ぶるぶる震えてきてたまらなかった。
 応天門に黒い影が近寄った。善男は耳を澄ました。二人か三人いる。基経と信だと思った。しかし一向に話す気配はなかった。もっと近づきたかったが、やめた。門の下の方から白い煙が出て来た。善男は最初別に不思議には思わなかった。線香をたくさん焚けば煙が広がる。寺の境内などで日常的に見る光景だ。炎が見えた。たき火をしているのだろうと思っただけだった。炎は大きくなった。やっと応天門が炎上していることに気づいた。善男は近づいた。誰もいなかった。ぐるりと回った。誰もいなかった。これは避難しなければ命が危ないとやっと思った。走りかけると、門の反対側に人を見つけた。戻って話し掛けようとした。信だった。
「左大臣殿、まさか?」
「違う!」
「後ほどご事情お伺いいたします」
「大納言殿、どうか私の話をお聞きください」
 善男はやはり来てよかったと思った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日