芥川

56
足音が聞こえた。いくつもの足音が走り回っている。
「左大臣様」
信は目を覚ました。高子(若狭)が上からのぞき込んでいた。肌が白かった。
「もう朝か」
「大変でございます。宮中のどこかで火災が発生したそうです」
「何!」
信は跳ね起きた。
「主上をお守りしなければ」
「主上は無事に避難なさったそうです。どうか安全なところに避難なさいませ」
着替えが済むと、女童が入ってきた。女童に連れられながら高子が心配そうに信を見た。
「左大臣様、どうかご無事で」
「高子様も」
信は今火災の危険よりも高子と夜を過ごしたことの危険を心配していた。大勢の人が逃げ回っている。見られたら一巻の終わりだ。
それを察した女房が信を安心させた。
「そちらの廊に左大臣様の避難を担当する男が控えております。万事心得ておりますので、ご安心召され」
「かたじけない」
女房と別れると、目端の利きそうな男がそっと声を掛けてきた。黒い服装をしているので目立たない。良房の従えている武士であろう。
「左大臣様、他の者たちには目の付かない方面にご案内します。こちらです」
「ありがとう」
男は機敏な身のこなしで外に出た。信も付いていった。思ったよりも人の数は多くなかった。まだ気づかずに静まっている殿舎も多いようだった。
人波とは別の方向に走っていくと、もう誰も見かけなくなった。そのうちに火の手が近づいてきた。応天門だった。妙だと思って男に訊いた。
「おい、こっちも燃えているじゃないか」
信が振り向くと機敏な男はもういなかった。
「あれ、おかしいな。おい、どこへ行った!」
まったく気配が感じられなかった。
しばらくその場に立ちすくんで男を探した。目に付くところにはいなかった。応天門の様子が気になった。まだそれほど火の勢いはない。今火が付いたばかりのようだった。信は応天門の様子をこの目で見て、あとで報告する必要があるだろうと思った。
近づいた。応天門はまだ下部が燃えているだけだった。しかしとても一人で消火できそうには見えない。誰か手伝ってくれる者がいないか辺りを見回すと、男が一人走ってきた。先ほどの男がやっと戻ってきたかと思い、声を掛けようとすると、それは大納言の伴善男だった。驚いた。なぜこんなに早い時間に大納言がいるのだろうか。宿直でもしたのだろうか。善男も気づいた。
「左大臣殿、まさか」
信はまずいと思った。よりによってこんなところを善男に見られるとは。応天門は善男が建てた。善男は信の最も憎む男。善男を憎む信が応天門火災の現場になぜ居合わせたのか。これはまずい。世間の人々は何を言い出すかわからない。事実をそのまま言えば済むことだが、なぜこんな早く宮中にいたのか、どこに泊まっていたのか、そう訊かれると弱い。さすがに高子と一緒だったとは言えない。このあと良房のところへ行き、正式に高子と結婚したいと話をすれば、今夜のことも問題にはならないであろう。しかしこのような状況で良房にどのように結婚話を切り出せばいいだろうか。これはいやな奴ではあるが、何としても自分の無実を証明する者として、味方になってもらわなければならない。
「違う!」
「後ほどご事情お伺いいたします」
善男は走り去った。
信は後を追った。
「大納言殿、どうか私の話をお聞きください」
善男は殿舎の中に入った。信も入った。しばらく追ったが、いつか善男は見えなくなった。信はあきらめた。いやな予感で頭が真っ黒になった。
奥の部屋部屋から大勢の人が逃げ出して来た。信は気づかれないように外へ出た。
「左大臣様」
信は目を覚ました。高子(若狭)が上からのぞき込んでいた。肌が白かった。
「もう朝か」
「大変でございます。宮中のどこかで火災が発生したそうです」
「何!」
信は跳ね起きた。
「主上をお守りしなければ」
「主上は無事に避難なさったそうです。どうか安全なところに避難なさいませ」
着替えが済むと、女童が入ってきた。女童に連れられながら高子が心配そうに信を見た。
「左大臣様、どうかご無事で」
「高子様も」
信は今火災の危険よりも高子と夜を過ごしたことの危険を心配していた。大勢の人が逃げ回っている。見られたら一巻の終わりだ。
それを察した女房が信を安心させた。
「そちらの廊に左大臣様の避難を担当する男が控えております。万事心得ておりますので、ご安心召され」
「かたじけない」
女房と別れると、目端の利きそうな男がそっと声を掛けてきた。黒い服装をしているので目立たない。良房の従えている武士であろう。
「左大臣様、他の者たちには目の付かない方面にご案内します。こちらです」
「ありがとう」
男は機敏な身のこなしで外に出た。信も付いていった。思ったよりも人の数は多くなかった。まだ気づかずに静まっている殿舎も多いようだった。
人波とは別の方向に走っていくと、もう誰も見かけなくなった。そのうちに火の手が近づいてきた。応天門だった。妙だと思って男に訊いた。
「おい、こっちも燃えているじゃないか」
信が振り向くと機敏な男はもういなかった。
「あれ、おかしいな。おい、どこへ行った!」
まったく気配が感じられなかった。
しばらくその場に立ちすくんで男を探した。目に付くところにはいなかった。応天門の様子が気になった。まだそれほど火の勢いはない。今火が付いたばかりのようだった。信は応天門の様子をこの目で見て、あとで報告する必要があるだろうと思った。
近づいた。応天門はまだ下部が燃えているだけだった。しかしとても一人で消火できそうには見えない。誰か手伝ってくれる者がいないか辺りを見回すと、男が一人走ってきた。先ほどの男がやっと戻ってきたかと思い、声を掛けようとすると、それは大納言の伴善男だった。驚いた。なぜこんなに早い時間に大納言がいるのだろうか。宿直でもしたのだろうか。善男も気づいた。
「左大臣殿、まさか」
信はまずいと思った。よりによってこんなところを善男に見られるとは。応天門は善男が建てた。善男は信の最も憎む男。善男を憎む信が応天門火災の現場になぜ居合わせたのか。これはまずい。世間の人々は何を言い出すかわからない。事実をそのまま言えば済むことだが、なぜこんな早く宮中にいたのか、どこに泊まっていたのか、そう訊かれると弱い。さすがに高子と一緒だったとは言えない。このあと良房のところへ行き、正式に高子と結婚したいと話をすれば、今夜のことも問題にはならないであろう。しかしこのような状況で良房にどのように結婚話を切り出せばいいだろうか。これはいやな奴ではあるが、何としても自分の無実を証明する者として、味方になってもらわなければならない。
「違う!」
「後ほどご事情お伺いいたします」
善男は走り去った。
信は後を追った。
「大納言殿、どうか私の話をお聞きください」
善男は殿舎の中に入った。信も入った。しばらく追ったが、いつか善男は見えなくなった。信はあきらめた。いやな予感で頭が真っ黒になった。
奥の部屋部屋から大勢の人が逃げ出して来た。信は気づかれないように外へ出た。