芥川

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57

 応天門の変のかなり前のことである。
 駿河国、宇津の山。蔦や楓の向こうから僧侶が近づいてきた。僧侶は汗を拭きながら岩に腰を下ろす業平に声を掛けた。
「ここへ座ってもよろしいですか」
 業平は僧侶を見て目を見開いた。
「良房様、これはまたどうなさいましたか」
 良房と呼ばれたとたん、業平を鋭い目で射た。
「御坊と呼んでください」
 業平はその意味をすぐに理解し、何気なく振る舞った。
「御坊、どちらへおいでなさる」
「はい、京に戻ります」
「では、京にいる私の知り合いに手紙を渡してくださるか」
 業平は手紙を書いた。

駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

「それでは私はこれで」
 業平は岩から腰を上げ武蔵に向かって歩きだした。しばらく行くと不意に背後から声がした。
「業平様」
 振り向くと誰もいなかった。木の幹に紙が矢で留めてあった。足音の方を振り向くと黒い服装の後ろ姿が小さく見えた。呼び止めても無駄であった。業平は矢を引き抜いた。

今宵 足柄

 紙に書いてあるのはそれだけだった。しかし業平はそれを大事そうに懐にしまい、また供回りの者たちと歩き始めた。
 足柄までは遠かった。業平は今日のうちに辿り着くのか不安になった。従者の一人が木の幹に刺さった矢を見つけた。ちょうど分かれ道になっていた。業平は矢のある方へ進んだ。また矢が刺さっていた。業平はそちらへ進んだ。それがいつまでも続いた。かなり歩いたあと、やっと渓流沿いに民家が見えた。もうすっかり暗くなっていた。民家の門前では赤々と篝火が焚かれていた。大勢の者たちが民家から出て来て業平を出迎えた。大きな家だった。業平は広い部屋に通された。
「業平殿、遠いところをご苦労様でした」
 良房がきちんとした姿で座っていた。まだ僧侶の格好だったので、業平は不思議に思った。
「良房様、ご案内ありがとうございます。ところで、なぜまだ僧侶の姿なのでしょうか」
「何、もうずっとこの姿で旅をしているのですよ」
 太政大臣の面影はどこにもない。卓の上に乗っている料理も質素である。それを言った。
「何、日本の運営をする人間が贅沢をし出すと、すぐあちこちがほころびます。それに私はこういう生活が好きなのです」
 業平もそれほど贅沢な方ではないが、しかし良房には到底かなわないと思った。料理が運ばれてきた。山のようにある。酒もふんだんにある。業平は実に恐縮しながら飲んだ。良房は飲まなかった。
「私は昔からあまり好みませんので、失礼致しますが、業平殿はどうぞたんとお飲みください」
 何度も注いでくれる。業平はますます恐縮した。
「ところで、旅はいかがですか」
 良房は口調は柔らかいが、眼光は鋭かった。
「やはり東国は豊かです」
 業平は余計な話はせず、本題に入った。そういう雰囲気であったのだ。
「東国は京にいては想像もできないほど繁栄しておりますな」
「はい」
「荘園の廃止はできるかな?」
 業平は即座に否定した。
「到底無理でございます。いえ、右大臣や大納言の国政改革は、大変理にかなっておりますし、本来そうあるべきであります。しかし、無理を通そうとすると、反動が恐いです」
「やはり業平殿もそう思われますか。右大臣も自分の目で見るといいのですがね」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日