芥川

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59

 琴の音が風に乗ってきた。業平は良房に渡した手紙を思い出した。急いで渡さなければならなかったので、誰かの詠んだ歌を少し変えただけだった。

駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

 もちろん高子にはもう会えないと思っていた。それに高子が東国にいるはずもない。しかし琴の音で業平が思ったのはやはり高子であった。
「高子です」
「本当ですか! 何でこんなところまで?」
「あれはお転婆でな。武士の娘といつも一緒にどこへでも出掛けるのです」
「世の中では良房様はご病気で家に籠もり、高子様は世間の噂を気にして引きこもっていると、もっぱら評判になっています」
「私が近畿や東国の武士たちの実状を聞き回ったり、高子が武士の娘たちの中から、使える者を見つけたりしているとは思っていないでしょうね」
「そんなことを誰が思いましょうか。本当に驚くべき親子です」
「しかし大事なことですよ。自分の目で見ること。遠い将来の目標の実現に向けて、あらゆる準備をしておくこと。これをしない人が多すぎる。だからかつての有力者がみんな衰退してしまうのです。藤原北家がずっと繁栄しているのは、それなりに努力をしているからですよ」
「おっしゃる通りです」
「ところで業平殿、私の頼みを聞いてくださるか」
「もちろんです」
「良相と伴大納言の国政改革はどこで訊いても評判が悪い。私はできれば良相に後を継がせたかったが、難しいと思う。やはり基経に継がせようと思う。実はその計画もかなり進んでいるのですが、もう一つ重要な役目がありましてな」
 業平は顔を良房に近づけた。
「それを私にやらせてください」
「ありがとう。君は頼もしいな」
「それでどんな役目でありましょうか」
「いや簡単な役目ですよ。簡単に計画の筋を話しましょうね。ある日の明け方、応天門が火事になります。その現場で大納言伴善男が左大臣源信を見ます。大納言は良相に訴えるでしょう。左大臣は捕まります。何でこの日に宮中に朝早くいたのだと尋問されます。しかし左大臣は答えられない」
「それはどうしてですか」
「たまたま宮中に泊まっていた高子の部屋にいたからです」
「高子様にそんな役目をさせるのですか」
「もちろん替え玉ですよ」
「そして、左大臣の容疑が固まりかけたころ、大納言の命令で火を付けたという男が逮捕される」
「私が火を付けるのでしょうか」
「違います。誰かに火を付けさせてほしいのです」
「いったい誰に?」
「あなたは紀氏と親しい。適当な人物はいませんか」
「なるほど、伴氏と紀氏という由緒正しい士族を朝廷から一掃するということですね」
 良房は無表情だった。
「断れば私どもの一族は破滅ということでしょうね」
「先ほどもお話ししましたが、日本という国全体を見回して、我々貴族は政治をしていかなければならないと思うのです。残念ながら今のところは藤原北家が武士たちを束ねるしかないようです。私も本当はそんなことをしたくないのです。伴氏や紀氏、それからあなた方在原氏などで、平等に役職を割り振って、輪番制のような形を取ることが理想だと思っているのです。しかし摂津や東国の武士たちはそれを望んでいないし、また伴氏や紀氏、失礼ながら在原氏は、強大な武士の手綱を操ることはできないのではないでしょうか」
 業平は良房の冷酷さに腹が立った。しかしまた彼は現実家でもあった。
「わかりました。適当な人物を探してみましょう」
「ありがとう。……ところで、高子があなたに相談したいことがあると言っておりました」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日