芥川

芥川
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 女たちの部屋はいつも特別な匂いが立ちこめている。滋平はそのよい匂いに包まれると、うれしくなった。それから女たちの部屋はいつもはじけるような声が楽器のように、あるいは連続にあるいは断続に聞こえてくる。この高い声の協和を聞くと、滋平はやはりうれしくなった。特に義母の部屋は他の部屋よりも、その匂いの質や声の質が断然にすぐれていた。すでに義母に寄り添い甘える年齢ではなくなっていたから、義母の部屋に無作法に飛び込んだりすることはできないが、時々義母が物語をしてくれるときは、堂々と義母の部屋に入ることができ、そのとき滋平は、この若く美しい女性が自分の義母であることを誇らかに感じ、またそのことがとても信じられないような気もするのだった。義母は物語が好きだった。在原業平という有名な歌人の孫であるということを誰もが滋平に言って聞かせた。業平については、滋平が生まれる以前に故人になっていたため、滋平は見たこともなく、また義母の祖父である人物にはさすがに何の親しみも覚えなかったから、自分の親類であるというよりは、昔の偉人という感覚しか抱かなかったが、その有名な歌人が親族にいたということは、やはり漠然とではあるが、滋平を誇らしい気持ちにさせるのだった。また人が、業平は絶世の美男だったから義母も絶世の美女なのだし、義母の子の滋幹(しげもと)は大人になると絶世の美男になるであろうというようなことを言うことがしばしばあったが、それを聞くと滋平は複雑な心境になるのであった。自分はとても絶世の美男になどはなり得ないということがだんだんとわかってきていたからであった。
「実はそういうわけで、高子様のお相手は、こともあろうに叔父の良房様だったのでございます。良房様は、高子様と結婚しようと思い、政治のことは弟の良相様と高子様の兄上の基経様にお譲りになって、自分の領地である摂津に移り住もうと計画されていたのでございます。良房様が摂津国の芥川を高子様をおぶって歩いていたのを、伊勢物語では業平がおぶったことにしてありますが、本当は良房様だったのでございます」
 滋幹の母が「芥川」の実話と称する物語を話し終えると、一座はどよめいた。滋平には女たちが何を驚いているのかわからなかった。
「では、業平様が罪を負って東下りをしたのは、これはどう考えればよろしいのでしょうか」
 滋平の義理の弟である滋幹の乳母が訊いた。彼女は皇族や公卿の噂話などがとても好きで、いつも女房たちと顔を寄せあっては、誰と誰が結婚しただの、誰それが政略にかかって左遷されただの、そう言った類いの話に花を咲かせている。
「業平もたしかに東国へ行きましたが、これは左兵衛権佐(さひょうえのごんのすけ)として武士たちの巡検をするためでした」
「では東下りは作り話なのですか」
「そうです。でも、良房様と高子様がお忍びで東国の武士の拠点に訪問したことがあると言われていまして、その際の見聞が東下りに反映されているそうです」
「なぜまた良房様と高子様はそんな遠いところまで訪問されたのでしょうか」
「当時良房様の弟の良相様が荘園改革を断行しようとしておりましたので、良房様は有力な武士の反応を確かめたのでございます。武士が良相政権を打倒する動きが起こりかけていたので、良房様は京へ戻り、良相様の改革をやめさせたということです」
「高子様が同伴する必要があったのでしょうか」
「高子様はまだ清和天皇に入内なさらなかったので、その時期は良房様の妻同然にお暮らしになっていたそうです。入内後も関係は続き、陽成天皇は実は良房様のお子ということですよ」
「それはえらいことですよ。それが本当のことでしたら、そもそも陽成天皇の即位は認められないではないですか」
「しかし陽成天皇ももう退位なさっていますからね」
「そうか。だから基経様は陽成天皇のお子を即位させなかったのですかね」
 別の女房が口を挟んだ。
「それもあるかもしれませんね」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日