芥川

芥川
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 女たちの声がはじけ、まるで木に止まった鳥たちがさえずっているかのようである。
「ということは現在伊勢が語っている芥川は、あれは実話ではないのでございますね?」
 滋幹の乳母は伊勢が嫌いだった。男たちに媚びを売り、権勢のある男たちにちやほやされていい気になっているのだと、いつも悪口を並べていた。
「私が伊勢のでたらめをやめさせるために、奥様の事実談を語ってもよろしゅうございますでしょうか」
 滋幹の母は眉を寄せて乳母の顔を見た。
「それは、まあ、構いませんけれども、ちょっと心配な気もするわ」
「ご心配とおっしゃいますと?」
「うちも藤原北家の一員ですし、時平様のお耳にでもお入りになったら、夫が困るのではないでしょうか?」
 滋幹の母の夫は藤原国経である。国経は基経の兄である。七十歳を超える高齢で、まだ二十歳にもならない滋幹の母にとっては、夫というよりは、おじいさん、ひいおじいさんとしか考えられなかった。それに対して、時平は三十歳の美貌の青年である。国経の家の女たちにも非常な人気者で、何かの行事などで一家そろって見物に行くと、時平の優美な姿に熱を上げるのであった。女房たちのそのような軽々しい振る舞いを、滋幹の母はどこか冷淡に見ていた。
「時平様はお優しいお方ですから、そんなことをおとがめになったりはしませんわ」
「そうかしら」
 先ほどの若い女房がまた口を挟んできた。
「しかし奥様はどうしてこのような秘密をご存知なのですか」
「そう、そう」
 皆が一斉に滋幹の母を見て、答えを期待した。
「私の祖父が書き残していたのです」
「業平様が日記を残しなさっていたのですか?」
「ええ、祖父はまめな方だったそうですからね。私が生まれたころにはもうお亡くなりになっておりましたから、直接お話をうかがったことはないのですが、父や古参の女房たちからは、そのようにうかがっております」
「奥様もその日記をご覧になったのですか」
 若い女房は滋幹の母を見つめた。甲斐と呼ばれる女房であった。
「もちろん拝見しましたよ」
「その日記を拝見してもよろしいですか」
 滋幹の母は困った。
「ごめんなさい。お目にかけたいのはやまやまなんですけれど、今手元にはございませんのよ」
「今度見せていただいてもよろしいですか」
「甲斐、奥様を困らせてはいけませんよ」
 乳母が甲斐を制止したが、その声は乳母自身も見てみたいという気持ちを隠しきれていなかった。
「では、いつか機会がございましたらね」
 滋幹の母は約束をしたが、甲斐はこの約束が果たされないものであることを、声の調子から読み取った。
 半時の後、甲斐は所用で出掛けた。叔母のところへ、借りていたものを返しに行くのだと言った。誰も怪しむ者はなかった。
 その夜、滋幹の母の実家が荒らされた。しかし不思議なことに賊は何も盗まなかったという。用心深い家だから、賊が何も見つけられないうちに、目を覚ました家人の気配を恐れ、尻尾を巻いて逃げたのだと評判が立った。国経も滋幹の母に、お前のうちはしっかりしていると褒めた。
 国経が部屋から去ると、実家の者が滋幹の母に近づいた。
「日記ですか?」
「そのようです」
「保管場所の確認はしたの?」
「今、三河に人をやりました」
「大丈夫かしら?」
「高子様が摂津から応援を差し向けてくださったそうです」
「それなら安心ね」
「はい」
「それにしても甲斐だったとはね」
「上皇側の武士がこの家にもぐり込ませた者がいるとは聞いておりましたが」
「まさか甲斐だったとはね」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日