芥川

芥川
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 木には葉が生い茂り、姿は見えないが、蝉がしきりに鳴いていた。
 清涼殿の殿上の間で藤原国経が粛然として甥の時平の苦情を聞いていた。時平は渋い顔で、伯父に食いついていた。国経は甥が非難するたびに深々と頭を下げた。
「伯父上の家の乳母殿には、藤原北家にとってこれがどれほど厄介なことかわからなかったのでしょうか」
「誠に面目ない」
「いや、伯父上のご説明をうかがって、乳母殿が伊勢を毛嫌いし、その対抗意識から芥川の真相とやらを触れ回ったということはよくわかりました。仮に義理の祖父が叔母と密会をしたとしても、ただちに伯父上や私の進退問題に関わるということはありません。陽成天皇もすでにご退位されて、ずいぶん年月が経つわけですし、今上天皇は叔母の血筋とは全然関係がありませんから、問題は何もございませんよ。しかし道真殿はこういうことにはうるさいですよ。清和天皇や陽成天皇の子女の処遇などが取り沙汰されて、その伯父上の奥方がお持ちになっているとかいう業平殿の日記とやらの提出を求められたりしたら大変ですよ。奥方はさぞかし厳しい取り調べを受けるでしょう。それにしても、伯父上の家の乳母殿はなんということをしてくれたのでしょうかねえ」
「本当に面目ない」
 国経は頭を下げたまま動かなかった。藤原冬嗣の長男として生まれ、氏の長者になることを期待されながらも、年の離れた弟の良房に追い越された父のことを思い出した。父のようにはなるまいと意気込んで政務に力を尽くしてはみたが、やがて弟の基経に追い越された。基経が先に死ぬと、今度は基経の子の時平に追い越された。そして今、甥の時平から妻の不行き届きを叱責されている。しかも時平が妻にある感情を抱いているらしいということに、少し以前から気づいてもいる。国経は年の離れた妻を扱いかねていた。時平が最近我が家にちょいちょい遊びに来るようになる前から、扱いかねていた。思えば妻は自分から望んで来たのである。それがどうにも不可解であった。国経は在原家にこの娘を求めたことはなかった。在原家からこの娘を受け取ってもらいたいと申し出てきたのだ。この娘の父親は、この娘自身が国経との結婚を望んでいると言った。そんなはずはなかった。二十歳にもならない美しい娘が、七十を越えた老人に好意を抱くなど、まったく考えられないことだった。しかし国経はこの娘の父親の家で、この娘から笑顔でよろしくお願い申し上げますと言われて、拒むことはできなかった。この娘にはなくても、この娘の父親には、必ず魂胆があると思った。が、自分の胸の奥から沸き起こってきた、久しく忘れていた猛々しい衝動にあらがうことは困難であった。七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えずなどという言葉はまったくのでたらめであった。国経がおかしいと思ったのは女が妻になって数ヶ月が経ったころだった。妻のところへ身元のわからない人物がたびたび出入りしているのに気づいた。妻は実家の者ですと説明した。それは本当だった。妻の実家からはたびたび人が来ていたのだ。しかもその者たちは国経にも恭しく挨拶をしていた。しかしそれに紛れてどうやら不審な人物も出入りしているようなのだ。国経は配下の武士に命じて調べさせた。しかし妻の実家の者以外には、誰の名前も出てこなかった。それでも何かがおかしいと国経は感じ続けた。藤原北家にはこういうことがよくあった。凋落した家の美しい娘というのは、危険なものなのである。以来妻のことを不気味に思うようになった。そのころ甥の時平が遊びに来るようになった。彼の目当てが若く美しい妻であることは容易に察しが付いた。国経はそれには気づかぬふりをして、酔い潰れて寝たふりをした。時平は妻の寝室に向かった。国経はしめしめと思った。とうとう時平は入れあげた。国経はさらによい機会を待った。今がそれだった。国経は顔を上げて、甥に一つの提案をした。
「道真殿が妻を連行しようとしたら、私にはあらがう術はありません。しかし、あなたの家からだったら、さすがの道真殿でも、無理に連行しようとは思いますまい」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日