芥川

芥川
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 蝉は増えていた。室内の話もよく聞こえないほどだ。
 時平は耳を疑った。
「失礼、今何とおっしゃいましたか? 私の家から伯父上の奥方を道真殿が連行することはできないというふうに聞こえましたが、私の聞き間違いでしょうか」
「いや、聞き間違いではございません。申し訳ありませんが、もうそれしか手がないと思うのです」
「つまり、それは、どういう……?」
「ですから、私の妻をあなたに引き取ってもらうことはできないかと申しております」
「引き取るとは、それは、どういう……?」
「つまりですな、私が妻を離縁いたします。その上で、あなたがそれと縁を持つということでございます」
「しかし、あなたはそれではお困りになるでしょう?」
「それは困りますが、しかし時が時ですから、致し方ありますまい」
「しかし一言で離縁と言っても、奥方が承知なさらないでしょう」
「ご心配には及びません。私によい考えがあります」
 国経は老いた顔を近づけた。時平も若々しい顔を近づけた。蝉の声はますます大きくなり、二人の話はほとんど聞こえなかった。
 夏の月がよく肥えていた。琴の音が涼しい。時平はご機嫌だった。御簾の奥に何度も視線を送った。すると琴の音がますます冴えた。
「伯父上、月が麗しゅうございますな」
「誠に」
「どうですか。伯父上と私で月の歌を詠み、負けた方が、勝った方に、一番大切にしているものを渡すと言うのは?」
「結構ですよ」
 国経はこれで滋幹の母とは会えなくなると思うと、急に悲しくなった。滋幹の母は若くて美しい。やはり自分のもとへ置いておきたい。そういう気持ちがむくむくと湧き起こった。今なら間に合う。やはりなかったことにしようと時平に言っても、許してくれるはずだ。実際時平は、いくら事情があっても、伯父の妻を突然連れて行くようなことをするのは、人としてあまりにも道に外れていると言っているのだった。しかし国経の脳裡に、これまであった不審な事件が駆け巡ると、再び滋幹の母を置いておくことはできないという気持ちになった。滋幹の母が来てから、もう二人も毒味役が死んだのだ。二人目が死んだときに国経は確信した。それ以来、妻の部屋には入る気がしない。国経は、できれば妻と元のように仲睦まじく時を過ごしたかった。実際妻は国経ととても楽しそうに過ごしていたのだった。国経は幾度も錯覚に陥りそうになった。しかし毒味役が死んだのは事実なのであった。国経は女の演技に惑わされる男ではなかった。国経は御簾の奥にいる妻に、再び仲睦まじく時を過ごしたいという意味の歌をわざと贈った。

あひ見ては心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞ思ふ

「あれ? 伯父上、月の歌ではありませんね」
「まあ、いいではないですか」
「それでは、私も反則をしてもいいですか」
「構わないですよ」
「では、秋の夜の歌を詠みます」
「おっ、いいね」

秋の夜の千夜(ちよ)の一夜(ひとよ)になぞらへて八千夜(やちよ)し寝ばやあく時のあらむ

 伯父の前で、ずいぶんと大胆な歌を詠む奴だなと思っていると、御簾の中から美しい声が聞こえてきた。

秋の夜の千夜を一夜になせりともことば残りてとりや鳴きなむ

 妻も妻で、夫の前なのに、ずいぶんと大胆な歌を詠んだものである。国経はしかし、もう嫉妬心は起こらなかった。疫病神を追い出せるので、急に心が軽くなった。何だか甥の時平が気の毒になったほどだ。しかし、時平の気持ちが変わらないうちに、早く事を進めなければならなかった。
「どうやら私の負けのようですね。では、私の持っているもので一番よいものをあなたに差し上げよう」
 国経が側に仕えている女房に耳打ちすると、女房は滋幹の母を連れて来た。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日