芥川

芥川
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69

 長い竹の先に網が取り付けてある。それが何度も空を切った。蝶は悠々としている。
「あー、だめだ!」
「逃げられちゃいましたね、滋平様、私がやりましょうか」
 女房が網を持つと、滋平はそれを振り払った。
「いいよ。僕がやる」
 滋平は蝶を探すが、なかなか見つからない。
「滋平様、あそこの木に蝉が止まっていますわよ」
 滋平は女房が指さす方を見た。蝉は網の届く高さに止まって鳴いていた。滋平はそっと近づき、網を構える。さっと網で蝉の止まっている辺りを覆った。滋平の顔に冷たいものがかかった。蝉はジジジと叫んで、飛び去った。
「ちぇ、しょんべんかけられた」
「滋平様、そのような汚い言葉をつかってはいけませんわ」
 滋平が女房には構わずにまた虫を探しに行くと、別の女房が呼びに来た。
「滋平様、お父上がお呼びでございます」
「父上が?」
 滋平は網を先ほどの女房に渡して、呼びに来た女房に付いていった。
 渡殿に差し掛かると国経と誰か若い男が笑っているのが聞こえた。
「あ、忠平さんだ」
 滋平は部屋に駆け入った。
「滋平様、お行儀が悪いですよ」
 女房が追いかけた。
 滋平が入ると、国経と忠平ともう一人の男が一斉に見た。
「忠平さん、相撲を取ろうよ」
「お、滋平くん、ほんの少し見ないだけなのに、ずいぶん大きくなったね」
「ほんの少しじゃないよ。正月以来ずっと遊びに来なかったじゃないか」
「これ、滋平、右大弁殿に向かって失礼じゃないか。忠平さんじゃなくて、右大弁殿とお呼びなさい」
「まあ、いいじゃありませんか。従兄弟同士なんですから」
「その人は?」
「こら、その人なんて、失礼な口を利くんじゃない。そちらの方だろ、まったく少しも口の利き方がよくならないだからな。右大弁殿などはな、お前くらいの年には、しっかり大人の挨拶もできるようになっていて、しっかりしていたんだぞ。少しは見習いなさい」
「紀貫之と申します。滋平様、どうぞよろしくお見知りおきくだされ」
 貫之が恭しく挨拶をした。
 滋平はぺこんとお辞儀をしただけだった。
「これ、滋平! まったくろくな挨拶ができないのだから」
「まあ、伯父上、まだ小さいのですから、よろしいではありませんか。そのうちに私が仕込み申し上げましょう。ねえ、滋平くん」
「うん」
「うん、じゃなくて、はい、だ!」
「はーい」
「伸ばさなくてよろしい!」
 忠平は国経に目配せをした。国経は女房たちを外に出した。
「私も退席いたします」
「あ、いや、貫之様はぜひ同席くださいませ」
 忠平の振る舞いはいつものように如才なかった。
「よろしいのですか、中納言様」
「あ、まあ、よかろう」
 国経は忠平の顔を見ながら言った。確かな判断ができる人間の言動を見ながら自分の振る舞いを決定するという癖が国経には染みついていた。それが彼に安定した地位を保たせていた。しかしその反面彼がめざましい舞台とは縁遠いところに位置していたのも、この振る舞いのもたらしたものであった。彼よりも遥かに有能な彼の縁者たちは、常に彼のこの性格を巧みに利用した。忠平の義理の祖父もそうしたし、忠平の父もそうした。そして今、忠平もそうしようとしている。
「では、まず、お父様から滋平くんにとても大切な話があります。あなたは藤原北家の一員なのですから、しっかりとした態度で聞いてくださいよ」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日