芥川

70
大きな羽音がした。ジジジジジ。滋平は御簾をめくって空を見た。国経の怒鳴り声が追いかけた。滋平は鳴き声の方を見たが、原因はわからなかった。忠平が滋平の肩に手を置いた。
「蝉が烏に食べられたんですね」
「烏?」
滋平が忠平を見上げた。
「ほら、あそこに羽が落ちている」
美しい庭園の苔むした辺りに二枚の蝉の羽が落ちていた。
「たぶん烏に捕まったんでしょうね」
「あれは烏の食べ残しなの?」
「きっとね」
「おい、滋平、戻ってきなさい!」
「さ、戻りましょう」
「うん」
座に着くと、滋平は神妙に父の話を聞いた。
「いいか、お母さんはな、悪気はなかったんだけど、少し、その、軽率なことをしてしまったのだ。つまり、我が藤原北家にとって、いささか不名誉なことがだな、世間に知れ渡ってしまう可能性があるということだな。なぜというに、先々代の氏の長者がだな、その、過ちを犯したという物語をだな、あ、いや、実際にはそんなことはなかったのだが、話が面白くなるようにと、そこは、お母さんなりに工夫をしたのだが、それがいささかやり過ぎてしまったと、そういうわけなんだ。わかるか」
始めのうちは神妙に聞いていた滋平だが、いつものことながら、国経の要領を得ない話を聞いているうちに、眠くなって、うとうととしてしまった。
「おい! 滋平、聞いておるのか? 人が大事な話をしているというのに」
「伯父上、ありがとうございます。滋平くんのお母様にとって大切なお話だということは、滋平くんにもきっと伝わっていると思います。そうだよね、滋平くん」
「はい」
滋平は忠平の真面目な表情に釣られて、改まった声を出した。
「どうでしょう? 直接的なお話は伯父上からはやはりなさりにくいでしょうから、この後は私に続けさせていただいてもよろしゅうございますか」
「まあ、お前がそう言うのなら、構わんよ」
「ありがとうございます。それでは、滋平くん、僕がお母様がどうなさったのかをお伝えしますから、もしわからないことがあれば、何でも遠慮せずに訊くんだよ」
「はい」
「お母様が業平様のお孫様だというのは知っているかい?」
「知ってます」
「実は業平様には物語があってね、とても人気があるんだよ。ところが、業平様のうちの人にはあまりうれしくないんだ」
「なぜ?」
「業平様の悪口が書いてあるんだよ」
「かわいそう」
「そうだろ。お母様は業平様のお孫様だから、それがいやだったんだ。それでその悪口は誤解なんだと世間の人に知ってもらいたかったんだよ」
「誤解って?」
「間違いってことさ」
「わかった」
「そうしたら、今度は、うちの、藤原北家の、悪口を言っちゃったんだ」
「どうして?」
「身内だから構わないと思ったのかな」
「ふーん」
「でも、それが世間で騒がれちゃったので、時平兄さんが困ってしまってね。ほとぼりがさめるまで、お母様は時平兄さんのうちに泊まることになったんだ」
「ほとぼりがさめるって」
「世間が騒がなくなるってことさ」
「何で時平兄さんのうちに泊まるの?」
「時平兄さんは日本で一番偉い人だから、お母様を悪い人たちから守ってくれるんだ」
「日本で一番偉いのは主上じゃないの?」
「あはははは、それはそうだね。じゃあ、二番目に偉い人だ」
「お父さんは?」
「三番目だよ」
「そっか、三番目より二番目のうちにいる方がお母様は安全なんだね」
「そういうこと」
「蝉が烏に食べられたんですね」
「烏?」
滋平が忠平を見上げた。
「ほら、あそこに羽が落ちている」
美しい庭園の苔むした辺りに二枚の蝉の羽が落ちていた。
「たぶん烏に捕まったんでしょうね」
「あれは烏の食べ残しなの?」
「きっとね」
「おい、滋平、戻ってきなさい!」
「さ、戻りましょう」
「うん」
座に着くと、滋平は神妙に父の話を聞いた。
「いいか、お母さんはな、悪気はなかったんだけど、少し、その、軽率なことをしてしまったのだ。つまり、我が藤原北家にとって、いささか不名誉なことがだな、世間に知れ渡ってしまう可能性があるということだな。なぜというに、先々代の氏の長者がだな、その、過ちを犯したという物語をだな、あ、いや、実際にはそんなことはなかったのだが、話が面白くなるようにと、そこは、お母さんなりに工夫をしたのだが、それがいささかやり過ぎてしまったと、そういうわけなんだ。わかるか」
始めのうちは神妙に聞いていた滋平だが、いつものことながら、国経の要領を得ない話を聞いているうちに、眠くなって、うとうととしてしまった。
「おい! 滋平、聞いておるのか? 人が大事な話をしているというのに」
「伯父上、ありがとうございます。滋平くんのお母様にとって大切なお話だということは、滋平くんにもきっと伝わっていると思います。そうだよね、滋平くん」
「はい」
滋平は忠平の真面目な表情に釣られて、改まった声を出した。
「どうでしょう? 直接的なお話は伯父上からはやはりなさりにくいでしょうから、この後は私に続けさせていただいてもよろしゅうございますか」
「まあ、お前がそう言うのなら、構わんよ」
「ありがとうございます。それでは、滋平くん、僕がお母様がどうなさったのかをお伝えしますから、もしわからないことがあれば、何でも遠慮せずに訊くんだよ」
「はい」
「お母様が業平様のお孫様だというのは知っているかい?」
「知ってます」
「実は業平様には物語があってね、とても人気があるんだよ。ところが、業平様のうちの人にはあまりうれしくないんだ」
「なぜ?」
「業平様の悪口が書いてあるんだよ」
「かわいそう」
「そうだろ。お母様は業平様のお孫様だから、それがいやだったんだ。それでその悪口は誤解なんだと世間の人に知ってもらいたかったんだよ」
「誤解って?」
「間違いってことさ」
「わかった」
「そうしたら、今度は、うちの、藤原北家の、悪口を言っちゃったんだ」
「どうして?」
「身内だから構わないと思ったのかな」
「ふーん」
「でも、それが世間で騒がれちゃったので、時平兄さんが困ってしまってね。ほとぼりがさめるまで、お母様は時平兄さんのうちに泊まることになったんだ」
「ほとぼりがさめるって」
「世間が騒がなくなるってことさ」
「何で時平兄さんのうちに泊まるの?」
「時平兄さんは日本で一番偉い人だから、お母様を悪い人たちから守ってくれるんだ」
「日本で一番偉いのは主上じゃないの?」
「あはははは、それはそうだね。じゃあ、二番目に偉い人だ」
「お父さんは?」
「三番目だよ」
「そっか、三番目より二番目のうちにいる方がお母様は安全なんだね」
「そういうこと」