芥川

芥川
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 室内が暗くなった。稲光が走った。
「一雨来るな」
「にわか雨ですね」
 国経が御簾をめくって空を見上げた。廊に甲斐が控えていた。
「甲斐、入っていいぞ」
「失礼いたします」
 国経は小麦色の甲斐の健康そうな肌を見た。
「この女房が探してくれている」
 国経は忠平に小声で言った。
「それで、見つかったのでしょうか?」
 国経は首を横に振った。
「忠平さん、何話してるの?」
 滋平が近寄った。
「今、この方にお母様の様子をうかがっていたのですよ。お母様はお元気だそうです」
「滋平様、お母様はお元気ですから、ご心配いりませんよ」
 甲斐が紙を開いた。菓子が出てきた。滋平は夢中になった。
「気づかれたんだと?」
「はい、しかし、奥様は私が上皇側の武士が手配した女房だと思っているようです」
「しかし、どこに隠したんだろう? 三河にはないのか」
「三河には一年前から女房を住み込ませています。土地の者ですから、疑われてはいないようです。目端の利く女ですが、見つからないそうです」
「しかし最近になって高子の家の者が三河に行ったそうじゃないか」
「本当ですか」
「はい。女房から連絡を受けた東国の武士が追いかけましたが、逃げられたそうです」
 甲斐が申し訳なさそうにしている。
「うーむ」
 国経はしばらく考えていた。
「高子はなぜ滋幹の母に加勢するのだろう?」
「業平殿の家とは昔からずっとつながっているのでは?」
「在原家が高子を庇護してきたというのか」
「在原家と摂津と三河は一つの勢力なのでしょうね」
「大きい勢力だな」
「極めて」
「こちらに付いてくれないかな」
「難しいでしょう」
「やはり私の命を狙ったのは高子か」
「それはわかりません」
「しかしそうとしか考えられないではないか」
「私も、もう少しよく調べてみます」
「頼む」
 国経は、まさかこの若い甥が高子に制御されているとは思っていなかった。
「滋平様」貫之は滋平にそっと近づいた。
「何」
 滋平は菓子を食べながら顔を上げた。
「お母様に早くお目にかかりたいでしょう」
「うん」
「それでは、私の言うことを聞いてください。私は今お母様が書き残しなさったものを探しております。滋平様は覚えていらっしゃいませんか。お母様が書き残しなさったものなら、何でも構いません。それがあれば、お母様の誤解は解けて、すぐにでもうちに帰れるのです」
「知らない」
 なすすべがなかった。
 しばらくして忠平は用事があると言って、豪雨の中を押して帰った。滋平に気に入られた貫之はしばらく遊んでやっていたが、滋平が眠ると、あとは甲斐に任せて、滋幹の母の部屋に行った。時間を掛けて探したが、何も見つからなかった。雨がやんだので、滋幹の母の部屋以外の場所を探すのは明日にして、自邸に帰ることにした。
 貫之の牛車とすれ違いに、滋幹の乳母の牛車が国経邸に入った。乳母は滋幹の世話は他の女房に任せて、主人に付いて時平邸に移ってしまったのだった。
 乳母は忘れ物を取りに来たと、国経に挨拶して、自分が住まっていた局を片づけ終わると、滋平の部屋をのぞいた。
「滋平様」
「どうしたの? お母様はお元気?」
「ええ、お元気ですよ。滋平様に会いたがっております。明日、私が迎えに参りますので、お母様のところへ行きませんか」
「うん。僕、行く」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日