芥川
72
朝から雨が降っていた。夏だというのに、肌寒かった。
午後に貫之が国経邸に着くと、滋平はいなかった。時平邸に滋幹の母に会いに行ったが、まもなく戻るころだと言われた。
貫之は滋幹の母の部屋以外の場所を丹念に探したが、まったくの無駄骨であった。貫之が飲み物を飲みながら休んでいると、滋平が帰ってきた。しばらく遊んでやり、無駄とは思いながらも、もう一度訊いてみることにした。
「滋平様、もう一度思い出してほしいのですが、お母様が持っていたものがまだこのお邸のどこかに残っておりませんでしょうか」
「僕、お母様に連れて行ってもらったことがあるよ」
貫之は耳を疑った。
「本当ですか。どこへ連れて行ってもらったのか、覚えていらっしゃいますか」
「うん」
「今から一緒に参りましょうか」
「いいよ。だけど、お父様や忠平さんには内緒だよ」
(そうか、それで昨日は言えなかったのか)
「はい、もちろんです。誰にも言いませんよ」
「じゃあ、教えてあげる」
滋平は庭に出た。裏に回ると、築地の破れたところから、簡単に外へ出た。貫之は苦労したが、何とか外へ出られた。しばらく草原を歩くと、鴨川に出た。滋平は河原をどんどん歩いて行く。貫之が不安になったころ、糺の森に着いた。
「糺の森の中ですか」
「うん」
滋平はためらわずに森の中に入った。やがてちょっとした崖になっているところへ来た。崖下に石が並んでいた。
「おじさん、この石、動かせる」
石は思ったよりも軽かった。いくつかを脇にどけると穴が出てきた。
滋平はためらわずに穴の中へ入った。貫之も仕方なく入った。中は暗くなかった。斜面が木で補強されていて、神殿のようになっていた。光もうまく入るようになっていたので、歩くのは難しいことではなかった。
「いったい誰がこんなものを造ったのだろう?」
斜面側の壁面には戸の類いは一つもなく、出入りするには、滋平に教えられた穴しかなさそうだった。
中は涼しかった。
「氷室か?」
「ここだよ」
滋平が指さしたところには神棚があった。榊が新しかった。
「あの箱の中にお母様のお書きになったものが入ってるよ」
見ると、上質な箱があった。貫之は抽斗を開けて、中の冊子を取りだした。美しい筆跡だった。業平の日記と和歌がたくさんあった。冊子の最後に手紙があった。
貫之様
この冊子は元通り箱にお納めください。
今宵、お待ち申しております。
とあり、滋幹の母と記してあった。
貫之と滋平が洞窟から出ると、甲斐が洞窟に近づいた。石をどかして穴の中に入った。暗くて何も見えなかった。甲斐はいったん外へ出て、国経の武士を連れて来た。松明を持って洞窟の中を歩くと、神棚にはもう箱はなかった。貫之が出た後に、誰かが片づけたのだった。斜面側の壁面も誰かが何かで塞いでしまい、明かりが入らなくなっていたのだった。
夜、雨の中、貫之は牛車で出掛けた。途中でまた滋幹の乳母の牛車とすれ違った。外で声がする。従者だった。
「滋幹の乳母殿がお話があると」
すれ違った牛車は止まっていた。貫之は言われるがままに乳母の牛車に乗った。乳母の牛車は方向転換をして、時平邸に向かった。無論貫之が行こうと思っていたところである。
お陰で怪しまれずに時平邸に入ることができた。貫之は女房装束に着替えさせられ、うつむいていた。言われるがままに部屋に入ると、滋幹の母のよい匂いがした。
午後に貫之が国経邸に着くと、滋平はいなかった。時平邸に滋幹の母に会いに行ったが、まもなく戻るころだと言われた。
貫之は滋幹の母の部屋以外の場所を丹念に探したが、まったくの無駄骨であった。貫之が飲み物を飲みながら休んでいると、滋平が帰ってきた。しばらく遊んでやり、無駄とは思いながらも、もう一度訊いてみることにした。
「滋平様、もう一度思い出してほしいのですが、お母様が持っていたものがまだこのお邸のどこかに残っておりませんでしょうか」
「僕、お母様に連れて行ってもらったことがあるよ」
貫之は耳を疑った。
「本当ですか。どこへ連れて行ってもらったのか、覚えていらっしゃいますか」
「うん」
「今から一緒に参りましょうか」
「いいよ。だけど、お父様や忠平さんには内緒だよ」
(そうか、それで昨日は言えなかったのか)
「はい、もちろんです。誰にも言いませんよ」
「じゃあ、教えてあげる」
滋平は庭に出た。裏に回ると、築地の破れたところから、簡単に外へ出た。貫之は苦労したが、何とか外へ出られた。しばらく草原を歩くと、鴨川に出た。滋平は河原をどんどん歩いて行く。貫之が不安になったころ、糺の森に着いた。
「糺の森の中ですか」
「うん」
滋平はためらわずに森の中に入った。やがてちょっとした崖になっているところへ来た。崖下に石が並んでいた。
「おじさん、この石、動かせる」
石は思ったよりも軽かった。いくつかを脇にどけると穴が出てきた。
滋平はためらわずに穴の中へ入った。貫之も仕方なく入った。中は暗くなかった。斜面が木で補強されていて、神殿のようになっていた。光もうまく入るようになっていたので、歩くのは難しいことではなかった。
「いったい誰がこんなものを造ったのだろう?」
斜面側の壁面には戸の類いは一つもなく、出入りするには、滋平に教えられた穴しかなさそうだった。
中は涼しかった。
「氷室か?」
「ここだよ」
滋平が指さしたところには神棚があった。榊が新しかった。
「あの箱の中にお母様のお書きになったものが入ってるよ」
見ると、上質な箱があった。貫之は抽斗を開けて、中の冊子を取りだした。美しい筆跡だった。業平の日記と和歌がたくさんあった。冊子の最後に手紙があった。
貫之様
この冊子は元通り箱にお納めください。
今宵、お待ち申しております。
とあり、滋幹の母と記してあった。
貫之と滋平が洞窟から出ると、甲斐が洞窟に近づいた。石をどかして穴の中に入った。暗くて何も見えなかった。甲斐はいったん外へ出て、国経の武士を連れて来た。松明を持って洞窟の中を歩くと、神棚にはもう箱はなかった。貫之が出た後に、誰かが片づけたのだった。斜面側の壁面も誰かが何かで塞いでしまい、明かりが入らなくなっていたのだった。
夜、雨の中、貫之は牛車で出掛けた。途中でまた滋幹の乳母の牛車とすれ違った。外で声がする。従者だった。
「滋幹の乳母殿がお話があると」
すれ違った牛車は止まっていた。貫之は言われるがままに乳母の牛車に乗った。乳母の牛車は方向転換をして、時平邸に向かった。無論貫之が行こうと思っていたところである。
お陰で怪しまれずに時平邸に入ることができた。貫之は女房装束に着替えさせられ、うつむいていた。言われるがままに部屋に入ると、滋幹の母のよい匂いがした。