芥川

78
読経の声が風に紛れる。
「業平様、よくもこんな歌を」
高子は笑った。
思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも
まだ高子が五条后順子(のぶこ)のところにいたころに、業平が通ったときの歌だった。
まだ高子は十七歳だった。清和天皇が即位し、高子は五節の舞姫を務め、その姿に業平は恋をした。
五条后のところへ何度行っても、会えなかった。そこで贈った歌だった。
どんな貧しい暮らしだって構わない。二人の袖を重ねて温かい心で共寝ができれば。
そういう意味だった。ひじきにこの歌を添えて贈ったら、高子が会ってくれた。
「だって、ひじきがとてもおいしかったし」
高子は笑い転げた。
「素敵だなと思ったの。あなたと一緒になら、どこかの田舎で、貧しくても幸せな暮らしがしたいと心から思ったのよ」
二人は良房の部屋で遺品整理をしている。四十九日の法会で高僧が厳かに読経を続けていたが、これは後から駆け付けて霊前に供養する者のためだった。親族たちも少数を除いては、それぞれ部屋の奥で、酒を飲んだり話をしたりしていた。業平が退屈していると、女房が呼びに来て、良房の部屋に入ると、高子が書類を広げているところだった。大方の遺品は整理した後なのだが、歌や日記の類いは人々も持て余して、業平に任せたらどうかと誰かが言い出して、高子が手伝うことになったのだという。
「あなたが言い出したのでは?」
「違うわよ。歌だったらあなたが一番適任だって、みんな言っていたわよ」
「そうですか。武芸とか政務で一番とみんなに言われるといいんですけどね。まあ、おかげであなたとこうしてご一緒できるわけですから、ありがたいことですが。しかし、あなたの保管している手紙まで持って来なくてもいいじゃありませんか」
「だって、見ていたら懐かしくなったんですもの。ほら、こんなものもあるわ」
月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
「ちょっと、高子様、その歌はもう捨てませんか。私に渡してください」
業平が奪おうとする。
「だめ」
反射神経のよい高子は、すばやく歌を硯箱に入れ、立ち上がると、襖を開け、女房を呼んで、渡した。先ほどの「ひじき藻」の歌も一緒だ。
「私の部屋に運んで」
良房の邸にはまだ高子の部屋が残っていた。以前親王を出産したときにも、その部屋を使ったし、何かと便利に使っているのだった。
高子が襖を閉めると、業平に抱きすくめられた。
「業平様」
「高子様、本当に、あの歌を詠んだときには、私はもう二度とあなたにお逢いできないものだとばかり思っていました」
高子が六年前に清和天皇に入内した一年後、業平は良房に呼ばれて良房邸を訪問した。酒や食事の用意もあり、長い時間過ごし、一夜泊まった。良房は気を利かせて高子の部屋をあてがってくれた。その部屋で一晩中高子を思って、眠れなくて、先ほどの歌を詠んだのだ。高子はもういない。高子のいない春はもう以前の春ではない。私だけがあなたを慕うもとのままの私だ。そういう歌だった。良房邸を去るとき、迷った挙げ句に、知り合いの女房に託したのだ。今思うと高子に渡すのではなかったと思う。高子は清和天皇の女御ではないか。何という恐れ多いことをしてしまったのか。
「私ももとの身ですわよ」
高子は業平の整った顔を見上げた。
「高子様、五年前のお返事をいただけるとは思っても見ませんでした」
「業平様、あなたにはお願いしなければならないことがたくさんあるのです。私から連絡します。そうしたらこの家へおいでください」
業平は手に力を込めた。
「業平様、よくもこんな歌を」
高子は笑った。
思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも
まだ高子が五条后順子(のぶこ)のところにいたころに、業平が通ったときの歌だった。
まだ高子は十七歳だった。清和天皇が即位し、高子は五節の舞姫を務め、その姿に業平は恋をした。
五条后のところへ何度行っても、会えなかった。そこで贈った歌だった。
どんな貧しい暮らしだって構わない。二人の袖を重ねて温かい心で共寝ができれば。
そういう意味だった。ひじきにこの歌を添えて贈ったら、高子が会ってくれた。
「だって、ひじきがとてもおいしかったし」
高子は笑い転げた。
「素敵だなと思ったの。あなたと一緒になら、どこかの田舎で、貧しくても幸せな暮らしがしたいと心から思ったのよ」
二人は良房の部屋で遺品整理をしている。四十九日の法会で高僧が厳かに読経を続けていたが、これは後から駆け付けて霊前に供養する者のためだった。親族たちも少数を除いては、それぞれ部屋の奥で、酒を飲んだり話をしたりしていた。業平が退屈していると、女房が呼びに来て、良房の部屋に入ると、高子が書類を広げているところだった。大方の遺品は整理した後なのだが、歌や日記の類いは人々も持て余して、業平に任せたらどうかと誰かが言い出して、高子が手伝うことになったのだという。
「あなたが言い出したのでは?」
「違うわよ。歌だったらあなたが一番適任だって、みんな言っていたわよ」
「そうですか。武芸とか政務で一番とみんなに言われるといいんですけどね。まあ、おかげであなたとこうしてご一緒できるわけですから、ありがたいことですが。しかし、あなたの保管している手紙まで持って来なくてもいいじゃありませんか」
「だって、見ていたら懐かしくなったんですもの。ほら、こんなものもあるわ」
月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
「ちょっと、高子様、その歌はもう捨てませんか。私に渡してください」
業平が奪おうとする。
「だめ」
反射神経のよい高子は、すばやく歌を硯箱に入れ、立ち上がると、襖を開け、女房を呼んで、渡した。先ほどの「ひじき藻」の歌も一緒だ。
「私の部屋に運んで」
良房の邸にはまだ高子の部屋が残っていた。以前親王を出産したときにも、その部屋を使ったし、何かと便利に使っているのだった。
高子が襖を閉めると、業平に抱きすくめられた。
「業平様」
「高子様、本当に、あの歌を詠んだときには、私はもう二度とあなたにお逢いできないものだとばかり思っていました」
高子が六年前に清和天皇に入内した一年後、業平は良房に呼ばれて良房邸を訪問した。酒や食事の用意もあり、長い時間過ごし、一夜泊まった。良房は気を利かせて高子の部屋をあてがってくれた。その部屋で一晩中高子を思って、眠れなくて、先ほどの歌を詠んだのだ。高子はもういない。高子のいない春はもう以前の春ではない。私だけがあなたを慕うもとのままの私だ。そういう歌だった。良房邸を去るとき、迷った挙げ句に、知り合いの女房に託したのだ。今思うと高子に渡すのではなかったと思う。高子は清和天皇の女御ではないか。何という恐れ多いことをしてしまったのか。
「私ももとの身ですわよ」
高子は業平の整った顔を見上げた。
「高子様、五年前のお返事をいただけるとは思っても見ませんでした」
「業平様、あなたにはお願いしなければならないことがたくさんあるのです。私から連絡します。そうしたらこの家へおいでください」
業平は手に力を込めた。