芥川

芥川
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 香の香りが風に紛れる。
 親族も少なく、昔からの家人が客の世話に当たっている。
 業平は霊前に供養すると、昔から顔なじみの女房に話し掛けた。というよりは女房の方が事情をよくわかっていて、業平に話を振った。
「業平様、今日もお願いしてよろしいですか」
 業平は微笑んだ。さわやかな笑顔に女房の顔がほころぶ。
「もちろんです。いつもお邪魔して申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそ、ご面倒なことをお頼み申し上げて、大変恐縮しております」
 高子から話を持ち掛けられて以来、月忌には必ず良房の遺品整理に当たっていた。歌や日記が大量に残っていて、思ったより時間がかかっていた。
「いえ、いえ、私などのようなものが、あまり頻繁に太政大臣家にお邪魔していると、世間に何を言われるかわかりませんから、本当に申し訳ありません。しかし今日で終わりになりますから、ご安心ください」
「そんな、滅相もありません。私は業平様にお目にかかれるのをいつも楽しみにしておりますので、今日で終わりなんておっしゃらずに、もっとお続けくださいませ」
「ありがとうございます」
「高子様もお部屋にいらっしゃいますわ」
 女房が耳打ちすると、業平は一つうなずいた。
 良房の部屋に入ると高子が歌を並べていた。

春日野の若むらさきのすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず

おきもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ

思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも

人しれぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ

いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくもかへる浪かな

駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

「何をしていらっしゃるのですか」
 高子が真剣な顔をしている。まっすぐ歌を見て言った。
「物語を作ろうと思っているのです」
 業平は驚いた。
「それは困りますね。私の評判がますます悪くなるではありませんか」
 芥川事件はもう十年以上前になる。あのときは世間は大騒ぎで、その後業平が左兵衛権佐に就任し、東国の巡検に行くと、世間は業平が芥川事件の責任をとって、東下りをしているのだと、まことしやかに噂をした。
「業平様、本当に申し訳ないのですが、しばらくご辛抱ください」
 高子が真剣な目で業平を見た。
「業平様にこれからお頼み申し上げることは、とても重要なことです。私たちが親密だと世間に思われたら、すべておしまいです。業平様が私に近づくことなどあり得ないと世間が思ってくれたら、私たちは連絡を取りやすくなります」
 業平は考えた。そして決断した。
「わかりました。あなたの言うとおりにして、今まで間違いはありませんでした。これからも私はあなたに従います」
「ありがとうございます」
 業平は歌をじっくり見た。
「前半があなたに恋い焦がれる私、後半は身の程知らずの恋に失敗し、東下りする私ですね」
「どうでしょうか」
「春日野は私の歌ではありませんよ」
「良房です」
「なるほど、奈良の旧都での若かりし日の恋ですか」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日