芥川

芥川
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 香の香りが漂ってくる。
 良房はどう思っているのか。業平は考えた。
 考えてみると、これらの歌はすべて良房と高子、そして業平がからんでいる。
 高子を狙う男は多かった。業平もその一人だった。しかし良房は近づく男をできる限り排除した。「おきもせず」、「思ひあらば」、「人しれぬ」には、高子に近づけなかったころの業平の気持ちが表れている。
 業平はそれでも思いを遂げることができた。これは、良房に認められたということでもある。しかし芥川事件を経て、世間の噂にこらえきれず、東下りをした。実際は左兵衛権佐として東国巡検したのであったが、世間にはそういうことにしてある。そのときの歌が、「いとどしく」と「駿河なる」だ。「駿河なる」のときは、思いがけず東国に来ていた良房と高子に会った。その後高子は清和天皇に入内したから、高子との逢瀬は、あのときが最後だった。今回を除けば。「月やあらぬ」は、そのときの気持ちを詠んだものである。
 こういった一連の事件と高子への思いが詠み表されている中で、どうしても一つだけ気になるのが「春日野」だった。
 これには業平も高子も関係していない。良房だけの思い出である。この歌の状況もわからない。よくわからないまま、高子との物語に使うのは、気持ちが悪い。
 良房も自分の大事な思い出を勝手に使われたくないだろう。
「やはり春日野はやめましょう」
「えー、この歌、とても素敵なのに」
「しかし良房様のお気持ちがわからないので、使うわけには参りませんよ」
 高子は業平が良房に焼き餅を焼いているのだと思い、素直に従った。
「わかりましたわ。あなたがそうおっしゃるのでしたら」
「申し訳ありません」
 高子は、自分たちの思い出に業平の気持ちを向かせようとした。
「ねえ、あなたに連れられて逃げたときの歌がないわ」
「それは作りませんでしたね」
「ねえ、作ってくださらない」
 業平は考え込んだ。そのうちにいくつか思い浮かんだが、高子は、あまり乗り気がしないようだった。業平も乗り気がしなかった。
「しかしあのときのことを今さら歌にする必要がありますかね」
 高子は少し考えて、顔を上げた。
「そうね。あれは大事件だったから、世間が大騒ぎして、今でも語り草になっているわけですからね」
「歌などは必要ないですね」
「それでは春日野は除いて、この六首ね。そうね、この六首があれば、私たちの関係がすでに終わってしまったという印象は十分に与えられるわね」
「しかし本当にこれを広めるのですか」
「もちろんよ」
「やはりやめませんか」
「そうはいかないわ。世間の人たちには、どうしても私たちの関係がなくなったと思ってもらわなければならないんですから」
「しかし私があなたに会えば、いつか世間に気づかれますよ」
「それは考えてあります」
「そのような危険を冒してまでして、私があなたにいったいどのようなことをして差し上げればよろしいのですか」
 高子は、業平をじっと見た。
「基経です。基経は、いずれ自分の娘を入内させるわ。基経の娘は皇子を生み、基経は皇子を即位させるでしょう。基経は摂政、関白の座に居座り続けるでしょう。そうなったら私はもうどこにも居場所はありません。私の子や孫は落ちぶれるでしょう」
「あなたの娘を有力な家に嫁して、対抗すればよいではないですか。良房様に嫁した潔姫様のように」
「いえ、これからはまったく新しい方法が必要になってくると思います」
「まったく新しい方法?」
 業平は高子の言葉を待った。
「東国に強力な武士団を作り、全国の武士を束ねさせます。摂政、関白をしのぐ実権を持たせます」
「そんな絵空事がいったいどこから?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日