芥川

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 橘の香りが強まってきた。
 高子は自分にも難しい内容であり、まして他人が理解できるとは考えられない内容であるので、緊張が高まっていた。汗も出て来た。こういうときはどうすればよいのかを良房がいつも言っていた。高子はそれを思い出した。簡単な一つのことだけを口にするのである。すると、それに続いて自然と言葉が出て来る。高子は簡単な一つのことは何か考えた。
「代理人です」
「代理人?」
「ええ、代理人です。天皇の政務、公卿の補佐は、あまりにも多忙です。ですから、宮中の神事、人事に手一杯で、とても各国の行政まで手が回りません」
 業平はそれはその通りだと思い、うなずいた。
「もちろん朝廷から各国に国司を配置しております。ですが、国司一人でその地方の行政をすべて取りしきることは不可能です。そうするとどうしても目の行き届かないところが出て参ります。それでは困りますから、その地方に住んでいる優れた者に任せることになります。そうすると優れた者は力を蓄え、勢力を作ります。その勢力と朝廷の思っていることが一致していれば、何の問題もありませんが、実際には、朝廷の思っている以上にその勢力は自由にやりたいということがあります。しかしそれを全部聞いていたら日本という国はなかなか一つにまとまるものではありません。だからある程度地方には我慢してもらうことも出てきます。ところが最近では地方の我慢も抑えられなくなってきています。それがいろいろな形で現れ、天皇や朝廷も手を焼いています。特に最近は各地の武士がとても強力になってきていますから、天皇や朝廷もその強い力を抑えるのが困難になっています。良房や基経のように、強大な武士勢力を配下に従える力のある者が、天皇の補佐をし続けられれば、何も問題はありませんが、いつまでも藤原北家がそのような力を持ち続けることができますでしょうか?」
 業平は驚いた。まさか女の高子にこのように明晰な国状分析ができると思っていなかった。
「それはわかりませんが、過去の歴史を見てみますと、どれほど権勢を振るった氏族も、いずれの日にか必ず衰微いたしております」
「そうなのです。ということは藤原北家が例外という保証はどこにもないのです。いや、歴史を振り返ってみても、我が藤原北家がいつか衰微いたすことは必然なのです」
「では、そのときはどこの家が天皇の補佐をするのでしょう」
「在原家かもしれません」
 業平は何も言わなかった。
「紀氏かもしれません」
 高子はしばらく黙った。頭の中だけで考えていた難しい内容を伝えることができたので、ほっとしたのだった。気持ちが楽になると、続けるのは困難ではなかった。
「どこの家であろうが、そのころはもうどうでもよいのです」
「どうでもよいとは?」
「そのころになると、きっと天皇と公卿の政務は形式的なものになるでしょう。全国の地方を治めるのは実質的に武士になるはずです。そして全国の武士たちを束ねる代理人が東国に現れるでしょう」
「代理人?」
「武力で実質的に日本を統治し、地方官を任命する権限を持ったものです。租税の徴収と配分も代理人がいたします」
「馬鹿な! それでは天皇と公卿のやることがなくなってしまうではありませんか」
「いえ、人事権は今まで通り朝廷が有します」
「しかし地方官の任命は代理人が行うとおっしゃいませんでしたか?」
「それは国司とは別のものです。そうですね、現在の荘園の管理者みたいなものでしょうか」
「国司は今までどおり朝廷が任命して、国ごとの荘園は武士に守護させるということですか?」
「そうです。守護です。業平様はうまい言葉を考えてくださいましたね。地方を守護する者を、その地方の者から選び、各地方を守護する者を代理人が取り締まるのです」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日