芥川

芥川
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 いつの間にか高子の顔は政治家の顔になっていた。業平は月日の流れを感じた。初めて見たときのかわいらしい表情はほとんど失われていた。確かに美しいが、それは計算された美しさだった。十代の高子が無造作に見せた自然なかわいらしさではなかった。しかしそのことが高子の魅力を減ずるということはない。業平は良房の邸で高子と今日限り会えなくなるのが残念であった。高子の独特な政治論を聞きながら、業平はそんなことを思っていた。高子の話は明快で、進歩的であったが、しかし空想的で実現性に乏しい。女の高子がいくら一人で頑張ってみても、高子に東国の代理人を作れるはずがない。そうなると、これは建前であるのだろう。おそらくはこのような大義を立てて、実際には個人的な願望を実現したいのだろう。業平は高子の空想未来世界観をそう値踏みした。実際のところ高子は自分に何を要求しようとしているのであろうか。自分の子や孫たち、つまり、基経の圧力によって、おそらくは天皇にさせてもらえないであろう親王やその子孫が暮らしていけるように、東国に荘園を造りたいということではないだろうか。高子は良房から譲り受けた摂津の荘園を持っている。これを子や孫に譲ることができれば一番いいのだが、しかし摂津は代々藤原北家の荘園であるから、高子没後は基経やその子孫に取られてしまうはずだ。そうなると高子の子孫は行き場がなくなってしまう。だから今のうちによい荘園を造っておかなければならない。畿内の荘園はそう簡単には手に入らないから、将来性のある東国の荘園がほしい。そういうことではないか。
「そこで、業平様にお願いがございます。東国にはまだ未開の土地が豊富にあると聞いております」
(来たぞ)
 業平は知り合いの東国武士に口を利いてもいいですよと言おうとした。
「業平様に荘園を造っていただくことはできますでしょうか」
 業平は「あれ?」という目で高子を見た。
「それはどうでしょうか。私は畿内にもう荘園を持っておりますから」
「業平様は阿保親王のお子様でございます」
「はい、そうですが」
「阿保親王は承和の変の際、良房に協力してくださいました」
「確かにその通りです」
「阿保親王が橘逸勢の陰謀を皇太后に知らせてくださったから、良房は窮地を免れたのです」
 皇太后は当時中納言だった良房に橘逸勢の陰謀を知らせた。その結果、橘逸勢ら多数の者が捕まり、処罰された。そして、良房は妹の順子の子を皇太子に立てることができた。やがて皇太子は文徳天皇となり、良房は文徳天皇に娘を入内させた。二人の子どもが清和天皇であり、その摂政として良房は権力を一手に握ったのである。つまり、業平の父の阿保親王は、良房が摂政として事実上日本国における最高権力者に登りつめるきっかけを与えてくれた人物であった。
「業平様が私のところへ通うのを良房が許したのは、そういうことも大きな理由だったのだと思います」
 業平は何も言わなかった。
「先ほど私が絵空事のようなことを申したのは、実は良房の考えなのです」
「……」
「良房が基経に王朝政治を継承させようとしていたのは、これは世間の誰もがそう言う通り、間違いのないことです」
「しかし良房は朝廷だけ固めるのでは不十分だと考えました」
「とおっしゃいますと?」
「武士も全部固めるのです」
「固めているではありませんか」
「いえ、先ほど申したとおり、実行部隊たる武士に人事権と徴税権も掌握させ、朝廷は神事に専念するのです」
「では王朝政治は終わるではありませんか」
「いえ、武士政権は王朝政治を温存していくのです」
「なぜ?」
「天皇と朝廷を守るという大義がある方が、日本はまとめやすいからです」
「しかしそのことと私が東国に荘園を持つことにはどんな関係があるのですか?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日