芥川

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 灰色の空から日が差して、思いのほか暑くなってきた。業平は厚着をしてきたことを後悔し始めた。山崎の基経一行に合流したときは、額から汗を流していた。
 馬から下り、丁重に基経に挨拶をして、従者に狐を献上させた。
「毛並みのよい狐ですね」
 基経は台にある盃に酒を注いだ。
「業平様、どうぞ召しあがってください」
「いえ、酔いますと狩りができなくなりますから」
「今日はこの辺にして、続きは明日にしようと思います。せっかく山崎に来たのですから、遊女の踊りでも見に行きませんか」
「それは結構ですねえ」
「どうです、久しぶりに競争しませんか」
 基経は馬に乗るのが好きだった。またうまかった。
「殿にはとてもかないませんよ」
「そのような謙遜めいたことをおっしゃって、またいつかのようにわざと負けたりなさってはいけませんよ」
「とんでもありません。殿にかなう者などありませんよ」
 基経の栗毛色の馬が駆けた。
 業平の褐色の馬の方が一歩先を行っていた。
 黒い髪の遊女は単衣を着てゆったりと踊った。
「やはり山崎の遊女は上品ですね」
「これを見ると摂津の遊女を見に行けなくなりますね」
 業平が同意すると、横に座っている遊女がすねたように言った。
「あら、摂津にもいらっしゃるのですか」
「付き合いだよ」
「お友達にも山崎にいらっしゃるように言ってくださいな」
「ところで業平様」
「はい」
「摂津といえば、高子が、摂津を見捨てて、東国に移り住みたいとか言ってませんでしたか」
 業平は何と答えればよいかわからず、黙っていた。
「ハハハハハ。いいんですよ。私はすべて知っています。高子は自分の子が天皇になれなかったら生活に困るから、東国に荘園を持ちたいと言っていますよ。業平様は荘園を作ってほしいと頼まれていらっしゃるのでしょう?」
 そこまでわかっているのなら、白を切っても仕方ないと思った。
「まあ、そういうことです。私はどうしたらよいかと悩んでおります」
「薬子のように業平様を東国に連れていって、武士の国でも作るのだと言い出しかねないですからね、あいつは」
「いや、本当に恐れ入りました。よくそこまでおわかりで」
「何、あいつが昔からよく言っていることですからね」
「はあ、そうですか」
「そんな実現するとは思えない絵空事でも、あいつならわかりませんからね」
「そうですか?」
「武士が実質的な権力を握って、形骸化した貴族政治を支える。そういうことはあっても少しも変じゃありませんよ」
「しかしそうなったら、基経様がお困りになるのではないですか」
 基経は業平の目を見た。
「困りませんよ。武士たちに天皇と朝廷を守ってもらえるなら、世の中も乱れずに済むじゃありませんか。それに」
「それに?」
「もうほとんどそうなりかけていますよ。私の政権も実質的には摂津や東国の武士たちに支えられているようなものです。あなたが高子と武士の国を作ってくださったら、私も楽ができます」
「それでは、私に東国に荘園を作れとおっしゃるのですか」
「あなたなら安心です」
「それはどういうことですか?」
「早く高子に色よい返事をなさった方がよろしいですよ。あいつは道真殿にも話を持ち掛けています」
 道真と聞いて業平の血が燃えた。若くて頭の切れる道真に高子が興味を示していることは知っていたが、もうそこまで進んでいるとはまったく想定外だった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日