芥川

86
文机に何かが置かれた音がした。高子の女房が飲み物を替えたのだと思い、礼を言おうと貫之が顔を上げると、女房ではなかった。温かい酒を置いたのは、滋幹の母だった。
「これは」
貫之は滋幹の母を見た。彼女は目を細めて笑っていた。
「あなたの未来の妻が、あなたに会いたがっていたから、ここへ連れてこさせたのです」
高子が入口に座っていた。
「高子様、いつの間にいらしていたのですか」
「どうぞ」
滋幹の母が酒器を持ち上げた。
「ごめんなさいね。あなたに一つだけ話しておきたいことがあったものですから」
「何でしょうか」
「あなたは何がなさりたいのでしょうか」
「何がとおっしゃいますと?」
「あなたは最近道真殿とよく会うではありませんか」
貫之はまっすぐ高子を見ていた。彼女の真意を見抜こうとするように。
「勅撰和歌集についての相談のためにお目にかかるのですが、それが何か」
「危険ですよ。彼は律令制の番人ですからね」
「高子様は、道真様にも荘園を作ることをお頼みなさったそうですね」
「若い頃にね。断られたわ。私が何度も心を込めてお世話申し上げたのにね。私、恨んでるわ。いつか必ず仕返しをいたしますわ」
「他にもお頼みなさったのですか」
「もちろんよ。業平様も含めて、何人もの男性が、私に荘園を作ってくれたわ。みんな私の子どもが国司として治めているのよ。私が動けば、道真様や時平などひとたまりもないわ」
「では、本当に武士政権樹立に向けて、動き始めなさるのですか」
「いいえ、それはまだ早すぎるわ。まだまだ武士たちは、一枚岩にはなりそうもないわ。しばらくは、時平や忠平、そして、その子孫たちを祭り上げ続けることになるでしょうね」
「時平様や忠平様は、荘園制を維持するでしょうからね」
「ええ、でも、道真殿が、今おかしな動きをしているのよ」
「律令制の復活ですね」
「そうよ。あなたも律令制が復活した方がいいと思うの」
「私はこの方に誓いましたから」
貫之は滋幹の母を見た。
「それでは、あなたはしばらくここで未来の妻と楽しく過ごしていて下さい。彼女の家の者は、石山寺に参籠していると思っていますから、しばらくの間は、何の問題もないわ」
「しかし、私は帰りませんと」
「大丈夫です。私の家にある和歌を勅撰和歌集に入れるに当たって、しばらく選考作業をしてもらっていたと言いますから」
「それは」
「いえ、それは本当にお願いしようと思っていました。こんな形で失礼ですが、お引き受け願いませんか。かなりたくさんの和歌が、家にはございますから、本当に時間がかかると思いますよ」
貫之はしばらく考えていたが、それが一番いいと思った。
「わかりました」
「ありがとうございます。それでは、私は失礼いたします。あとは、未来の奥様と仲良くお過ごしください」
高子は、まだ何か言いたげな貫之には構わず、席を立った。
部屋は暖かかった。
滋幹の母は美しかった。昨晩はほの暗い灯の中でも美しいと思ったが、昼の明るさだと、それがたとえ屋内の奥の部屋で薄暗いにしても、さすがに夜とは違い、明るさが違ったから、滋幹の母の美貌を存分に味わうことができた。夜のようには暗くないといっても、ここは本当に奥まった場所みたいなので、やはり昼とは思えないほど、暗く落ち着いていた。静かで誰もいなかった。滋幹の母は微笑んでいた。
貫之はすべてを忘れることにした。
「これは」
貫之は滋幹の母を見た。彼女は目を細めて笑っていた。
「あなたの未来の妻が、あなたに会いたがっていたから、ここへ連れてこさせたのです」
高子が入口に座っていた。
「高子様、いつの間にいらしていたのですか」
「どうぞ」
滋幹の母が酒器を持ち上げた。
「ごめんなさいね。あなたに一つだけ話しておきたいことがあったものですから」
「何でしょうか」
「あなたは何がなさりたいのでしょうか」
「何がとおっしゃいますと?」
「あなたは最近道真殿とよく会うではありませんか」
貫之はまっすぐ高子を見ていた。彼女の真意を見抜こうとするように。
「勅撰和歌集についての相談のためにお目にかかるのですが、それが何か」
「危険ですよ。彼は律令制の番人ですからね」
「高子様は、道真様にも荘園を作ることをお頼みなさったそうですね」
「若い頃にね。断られたわ。私が何度も心を込めてお世話申し上げたのにね。私、恨んでるわ。いつか必ず仕返しをいたしますわ」
「他にもお頼みなさったのですか」
「もちろんよ。業平様も含めて、何人もの男性が、私に荘園を作ってくれたわ。みんな私の子どもが国司として治めているのよ。私が動けば、道真様や時平などひとたまりもないわ」
「では、本当に武士政権樹立に向けて、動き始めなさるのですか」
「いいえ、それはまだ早すぎるわ。まだまだ武士たちは、一枚岩にはなりそうもないわ。しばらくは、時平や忠平、そして、その子孫たちを祭り上げ続けることになるでしょうね」
「時平様や忠平様は、荘園制を維持するでしょうからね」
「ええ、でも、道真殿が、今おかしな動きをしているのよ」
「律令制の復活ですね」
「そうよ。あなたも律令制が復活した方がいいと思うの」
「私はこの方に誓いましたから」
貫之は滋幹の母を見た。
「それでは、あなたはしばらくここで未来の妻と楽しく過ごしていて下さい。彼女の家の者は、石山寺に参籠していると思っていますから、しばらくの間は、何の問題もないわ」
「しかし、私は帰りませんと」
「大丈夫です。私の家にある和歌を勅撰和歌集に入れるに当たって、しばらく選考作業をしてもらっていたと言いますから」
「それは」
「いえ、それは本当にお願いしようと思っていました。こんな形で失礼ですが、お引き受け願いませんか。かなりたくさんの和歌が、家にはございますから、本当に時間がかかると思いますよ」
貫之はしばらく考えていたが、それが一番いいと思った。
「わかりました」
「ありがとうございます。それでは、私は失礼いたします。あとは、未来の奥様と仲良くお過ごしください」
高子は、まだ何か言いたげな貫之には構わず、席を立った。
部屋は暖かかった。
滋幹の母は美しかった。昨晩はほの暗い灯の中でも美しいと思ったが、昼の明るさだと、それがたとえ屋内の奥の部屋で薄暗いにしても、さすがに夜とは違い、明るさが違ったから、滋幹の母の美貌を存分に味わうことができた。夜のようには暗くないといっても、ここは本当に奥まった場所みたいなので、やはり昼とは思えないほど、暗く落ち着いていた。静かで誰もいなかった。滋幹の母は微笑んでいた。
貫之はすべてを忘れることにした。