芥川

芥川
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 澄んだ流れに人々の影が映る。影の間を魚影が走る。冷たい風が襟元から忍び込む。
「寒いですわね」
「ええ」
「あなたは、夏からずっと高子様のところへ行っていて、忠平様の別院には一度も顔をお見せにならなかったですわね」
 忠平は今はまだ宇多法皇や菅原道真の側近である。宇多法皇は忠平を警戒する一方で、うまく使ってもいた。藤原北家を牽制しながら、菅原道真の政権を確立し、時平、仲平、忠平を、ほどほどに陣中に配備する。これが、宇多法皇と菅原道真の目標であった。勅撰和歌集編纂目的に伊勢を忠平の別院に出入りさせているのも、その計画の一環である。勅撰和歌集編纂という名目で、貫之に忠平の住む東三条殿の書庫を調べさせたのも、法皇の計略の一部であった。その作戦は成功し、貫之は良房の日記という重大な資料を見つけ出した。しかし、貫之は、それを法皇に渡す前に、忠平に見せた。貫之は、抜け目ない男だった。法皇に渡せば、藤原北家は、かなりの痛手を受ける。藤原北家が弱体化すれば、天皇の権力は強まる。天皇の権力が強まれば、地方の武士を抑えこもうとするはずだ。抑えこもうとすれば、地方の武士は反発する。今までは藤原北家が上手にまとめていたが、まとめるものがいなければ、その反発は、どうなるかわからない。武士が政権争いをするうちに、天皇制そのものも、どこかへ吹き飛んでしまうかもしれない。現在、中国が日本を狙っている。天皇が王なのか、武士の某が王なのか、よくわからない混乱状態になったら、中国にすべてさらわれてしまうだろう。貫之は、そういった事態を避けるために、忠平に日記を見せたのである。貫之は、忠平が、この国の舵を取るような気がしたのだ。しかし、ただ渡したのでは、紀氏は、忠平に潰される危険がある。当然だ。藤原北家の重要秘密を知ってしまったからだ。だから、抜け目のない貫之は、写しをどこかへ運びだしたのだ。それがどこにあるか誰もわからない。忠平もわからない。道真もわからない。宇多法皇もわからない。貫之は写しは作らなかったと明言している。明言しておきながら、忠平の配下の武士に自分の配下の武士をわざと追わせている。にせの写しを貫之の自邸の庭に埋めさせたのだ。忠平の配下は貫之の自邸に侵入し、荒らした。忠平のところから武蔵も来て、貫之の女房となり、いまでも密かに嗅ぎ回っている。貫之の写しは誰にも見つからない。しかし、忠平も道真も宇多法皇もあると信じている。もしあれば、誰にとっても重要なのである。法皇と道真の政権樹立に関する次なる行動は、現在貫之の写しにかかっているのである。法皇の近衛兵と道真所領地の武士で貫之を包囲する寸前に、貫之は高子の別院に籠もってしまった。貫之だけではない。業平の日記を持っているはずの滋幹の母も行方不明である。石山寺に参籠しているという時平の言葉に従って、捜索したが、石山寺にはいない。そうなると、今できることは、貫之を包囲し、良房の日記を出させることだけである。高子の別院からなかなか出てこない貫之だったが、貫之の自邸を強制捜査されたくなければ、宮中で催される五節の舞を見に来るように、伝えさせると、それに応じた。貫之は伊勢一人で来るのだったら、五節の舞を見に行くついでに、日記を渡してもよいと使者に告げた。それで、穏子の舞を見に、貫之と伊勢が来たのである。貫之の要求など無視して、逮捕してしまえばよいようではあるが、それはそう簡単なことではない。法皇の近衛兵と道真所領地の武士の付近には、貫之所領地の武士と高子所領地の武士が布陣している。南殿(なでん)には何人かの武士が潜んでいて、貫之にもしものことがあれば、すぐに攻撃が開始される。良房の日記を手に入れるために、御所で戦乱を起こすわけにはいかない。宇多法皇と菅原道真は、貫之が伊勢に大人しく日記を渡してくれないかと、祈っていた。
「日記はここにあります」
 貫之は手紙を渡した。

  今夜石清水八幡宮へ
  あなた一人でいらして下さい。

 伊勢は手紙を懐へしまい、背を向けた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日