芥川

89
黒い空からひらひらと雪が舞い降りた。半時もすると、男山の麓にある民家の屋根も白くなった。屋内は炭火で暖まっていた。
「道真様、貫之殿の兵は見当たりません」
道真は、熱い酒を台に置いた。
「では、本当に伊勢と二人で逢うつもりだったのか」
「はっ、そのようでございます」
道真の配下の武士は、そのまま命令を待った。
道真が、とりあえず伊勢が帰るのを待つしかないと言おうとすると、女房が戸の外で入室の許可を求めた。
「入れ」
「失礼いたします」
「どうした」
女房は、手に畳紙(たとうがみ)を持っていた。
「これを伊勢の御の侍女が持って参りました」
待ちに待ったものであった。道真は心が躍った。
「寄こせ」
女房から受け取った畳紙を道真は慌ただしく押し開いた。
本堂に至る坂道の脇に埋めてあります。
表参道ではなく、裏手の道です。
本堂からはそれほど離れておりません。
それだけだった。貫之の筆跡だと道真は思った。
「よし、総出で裏手の道の脇を掘り返せ」
「ハッ」
武士はすばやい動きで立ち上がると、もう外に出ていた。兵たちが規則正しく、しかも迅速に行動を開始する音が、小気味よかった。
本堂の僧坊は暖かかった。灯台の灯の向こうに笑顔の貫之がいる。
「よくそんなに落ち着いていられますわね。道真様の兵たちが、今にも捕らえにやって参るというのに」
伊勢は心配そうに貫之を見ている。その姿がとても美しい。
「さて、着替えますよ」
貫之は事もなげに言い、僧坊から出ようとした。伊勢の手を引く。
「着替えって?」
「さ、こちらです」
貫之の従者が先導する。
主上に伺候する女房が僧坊の前に立っていた。女房は貫之と伊勢を別の僧坊に入室させた。
「なぜ主上の女房がこちらにいらっしゃるのですか」
伊勢はてきぱきと侍女たちに指示を与える女房に尋ねた。
「主上のお付き添いのため、私たちもこちらへ参った次第です」
「主上が行幸あそばされたのですか」
「はい」
侍女たちが手際よく着付けをして、伊勢はすっかり醍醐天皇に伺候する女房の姿に変わっていた。
「あら、私まで主上の女房になるなんて」
「お時間がございませんので、どうぞお部屋の外へ」
伊勢が外へ出ると、貫之は近衛の中将の出で立ちになっていた。
「どういうことですか。あなた、もしかして中将におなりになったのですか」
貫之は笑い出した。
「いつかそのような身分になれるとよいのですがね。まあ、今夜一晩だけでも中将の気分を味わいましょうか」
いろいろ訊きたそうな伊勢に構わず、貫之は本堂から暗い外へ出た。もう一人、近衛兵の出で立ちをしていた武士が、貫之を導いた。伊勢は着付けをしてくれた侍女に助けられながら、夜道を歩き出した。
表参道には誰もいなかった。裏参道の両脇は掘り返された跡が無数に空いていた。道真の配下の武士たちは、ずっと下の方で作業を続けていた。
本堂の周囲には菰(こも)を巻いた松がたくさんあった。裏参道の松の一つに近づくと、貫之は、菰を外した。太い幹には大きなうろがあった。うろの中に手を入れて、しばらくすると、松の板をうろから出した。板が何枚も取り出された後、冊子が取り出された。
「これが写しです」貫之は笑っていた。
「道真様、貫之殿の兵は見当たりません」
道真は、熱い酒を台に置いた。
「では、本当に伊勢と二人で逢うつもりだったのか」
「はっ、そのようでございます」
道真の配下の武士は、そのまま命令を待った。
道真が、とりあえず伊勢が帰るのを待つしかないと言おうとすると、女房が戸の外で入室の許可を求めた。
「入れ」
「失礼いたします」
「どうした」
女房は、手に畳紙(たとうがみ)を持っていた。
「これを伊勢の御の侍女が持って参りました」
待ちに待ったものであった。道真は心が躍った。
「寄こせ」
女房から受け取った畳紙を道真は慌ただしく押し開いた。
本堂に至る坂道の脇に埋めてあります。
表参道ではなく、裏手の道です。
本堂からはそれほど離れておりません。
それだけだった。貫之の筆跡だと道真は思った。
「よし、総出で裏手の道の脇を掘り返せ」
「ハッ」
武士はすばやい動きで立ち上がると、もう外に出ていた。兵たちが規則正しく、しかも迅速に行動を開始する音が、小気味よかった。
本堂の僧坊は暖かかった。灯台の灯の向こうに笑顔の貫之がいる。
「よくそんなに落ち着いていられますわね。道真様の兵たちが、今にも捕らえにやって参るというのに」
伊勢は心配そうに貫之を見ている。その姿がとても美しい。
「さて、着替えますよ」
貫之は事もなげに言い、僧坊から出ようとした。伊勢の手を引く。
「着替えって?」
「さ、こちらです」
貫之の従者が先導する。
主上に伺候する女房が僧坊の前に立っていた。女房は貫之と伊勢を別の僧坊に入室させた。
「なぜ主上の女房がこちらにいらっしゃるのですか」
伊勢はてきぱきと侍女たちに指示を与える女房に尋ねた。
「主上のお付き添いのため、私たちもこちらへ参った次第です」
「主上が行幸あそばされたのですか」
「はい」
侍女たちが手際よく着付けをして、伊勢はすっかり醍醐天皇に伺候する女房の姿に変わっていた。
「あら、私まで主上の女房になるなんて」
「お時間がございませんので、どうぞお部屋の外へ」
伊勢が外へ出ると、貫之は近衛の中将の出で立ちになっていた。
「どういうことですか。あなた、もしかして中将におなりになったのですか」
貫之は笑い出した。
「いつかそのような身分になれるとよいのですがね。まあ、今夜一晩だけでも中将の気分を味わいましょうか」
いろいろ訊きたそうな伊勢に構わず、貫之は本堂から暗い外へ出た。もう一人、近衛兵の出で立ちをしていた武士が、貫之を導いた。伊勢は着付けをしてくれた侍女に助けられながら、夜道を歩き出した。
表参道には誰もいなかった。裏参道の両脇は掘り返された跡が無数に空いていた。道真の配下の武士たちは、ずっと下の方で作業を続けていた。
本堂の周囲には菰(こも)を巻いた松がたくさんあった。裏参道の松の一つに近づくと、貫之は、菰を外した。太い幹には大きなうろがあった。うろの中に手を入れて、しばらくすると、松の板をうろから出した。板が何枚も取り出された後、冊子が取り出された。
「これが写しです」貫之は笑っていた。