芥川
90
黒い空からひらひらと雪が舞い降りて、すぐに冊子の表紙が白くなった。侍女が自分の笠を外し、冊子を守った。
伊勢は、松明の明かりで、冊子を食い入るように読んだ。
「ご覧になりたいのはここのところでしょう」
貫之が冊子をめくり、指さした。
高子が清和天皇は良房とその娘明子との間にできた子ではないかと尋ね、良房がそれを認めていることが記されている箇所だった。それだけではない。良房は妻の潔姫との間には実際には一人も子どもを作ることができず、明子も潔姫と長良との間にできたということも記されていた。潔姫との間にだけは子どもができず、明子にはでき、高子にもできそうだという意味のことも書かれていた。それだけではない。高子の、清和天皇に入内した後も、良房との関係を続け、子どもを作って、それを清和天皇の子として育て、次の天皇や国司などにして、日本全土を掌握したいという望みまでが記されていた。
伊勢は目を見開いていた。何も言わずに、貫之の目を見た。
「これが公表されたら、世の中がひっくり返りますね。道真様がこれを持ったら、天下を取るのは確実です。あなたはそれを望んでいるのですか」
伊勢は何も言えなかった。首を横に振るだけだった。
「道真様の天下になったら、律令制を再興するでしょう。そのためには、どうしても荘園の廃止が必要です。荘園の廃止などできるのでしょうか」
伊勢は強く首を振った。
「そんなことをしたら、全国の武士たちが騒ぎだします」
「そうです」
伊勢は首を縦に振った。
「この日本は、たしかに天皇と貴族によって統治されています。しかし実際には、天皇や貴族に従属している地方の武士たちが、この日本の秩序を保っているのです。地方の武士たちは、いつでも朝廷を倒して、天下を取ろうとしており、油断なく隙をうかがっています。道真様が理想の追求を急ぐ余りに、現実を見誤ったら、大きな動乱が起こるでしょう。武士同士が天下を争うようになったら、再び秩序が戻るまでに、かなり長い年月が必要でしょう。民衆は疲れはて、町や村は衰退するでしょう。その隙に中国が攻めてきたら、ひとたまりもありません。いずれは、貴族政権に代わって武家政権が樹立することがあるかもしれません。しかし今はその時期ではありません。天皇と貴族と武士の間に、しかるべき合意が成立し、それぞれの役割関係が定まらなければならないと思います。それまでの間は、藤原北家のような、武士たちをしっかりと束ねられる貴族が、天皇の補佐をするという方法が、最もふさわしいのではないでしょうか」
「私もそう思います。しかし……」
「この日記を持っていかないと、宇多法皇と道真様のところへ戻れないとおっしゃるのでしょう?」
「はい」
伊勢は目を落とした。
「では、こうしませんか。あなたはこれから私と暮らすのです」
伊勢は目を輝かせた。
「よろしいのですか」
「もちろんです」
伊勢は貫之に身を寄せた。
「宇治川を船で上っていきますよ」
貫之は伊勢の耳元にささやき、身を離した。
一行が歩き出してしばらくすると、道真の配下の武士が見とがめ、誰何した。近衛兵の出で立ちをした武士が、石清水八幡宮に行幸している醍醐天皇の伝令を伝えにきたというと、道真の配下の武士たちは、ひれ伏した。
近衛兵姿の武士だけが、道真の宿舎に向かい、あとは川岸に歩いて行こうとするので、道真の兵は問いただした。
「中将様たちはどちらへいらっしゃるのですか」
「左大臣様へ報告に参るので」
「ああ、そうでございますか」
伊勢の目に、装飾を施した船が見えた。
伊勢は、松明の明かりで、冊子を食い入るように読んだ。
「ご覧になりたいのはここのところでしょう」
貫之が冊子をめくり、指さした。
高子が清和天皇は良房とその娘明子との間にできた子ではないかと尋ね、良房がそれを認めていることが記されている箇所だった。それだけではない。良房は妻の潔姫との間には実際には一人も子どもを作ることができず、明子も潔姫と長良との間にできたということも記されていた。潔姫との間にだけは子どもができず、明子にはでき、高子にもできそうだという意味のことも書かれていた。それだけではない。高子の、清和天皇に入内した後も、良房との関係を続け、子どもを作って、それを清和天皇の子として育て、次の天皇や国司などにして、日本全土を掌握したいという望みまでが記されていた。
伊勢は目を見開いていた。何も言わずに、貫之の目を見た。
「これが公表されたら、世の中がひっくり返りますね。道真様がこれを持ったら、天下を取るのは確実です。あなたはそれを望んでいるのですか」
伊勢は何も言えなかった。首を横に振るだけだった。
「道真様の天下になったら、律令制を再興するでしょう。そのためには、どうしても荘園の廃止が必要です。荘園の廃止などできるのでしょうか」
伊勢は強く首を振った。
「そんなことをしたら、全国の武士たちが騒ぎだします」
「そうです」
伊勢は首を縦に振った。
「この日本は、たしかに天皇と貴族によって統治されています。しかし実際には、天皇や貴族に従属している地方の武士たちが、この日本の秩序を保っているのです。地方の武士たちは、いつでも朝廷を倒して、天下を取ろうとしており、油断なく隙をうかがっています。道真様が理想の追求を急ぐ余りに、現実を見誤ったら、大きな動乱が起こるでしょう。武士同士が天下を争うようになったら、再び秩序が戻るまでに、かなり長い年月が必要でしょう。民衆は疲れはて、町や村は衰退するでしょう。その隙に中国が攻めてきたら、ひとたまりもありません。いずれは、貴族政権に代わって武家政権が樹立することがあるかもしれません。しかし今はその時期ではありません。天皇と貴族と武士の間に、しかるべき合意が成立し、それぞれの役割関係が定まらなければならないと思います。それまでの間は、藤原北家のような、武士たちをしっかりと束ねられる貴族が、天皇の補佐をするという方法が、最もふさわしいのではないでしょうか」
「私もそう思います。しかし……」
「この日記を持っていかないと、宇多法皇と道真様のところへ戻れないとおっしゃるのでしょう?」
「はい」
伊勢は目を落とした。
「では、こうしませんか。あなたはこれから私と暮らすのです」
伊勢は目を輝かせた。
「よろしいのですか」
「もちろんです」
伊勢は貫之に身を寄せた。
「宇治川を船で上っていきますよ」
貫之は伊勢の耳元にささやき、身を離した。
一行が歩き出してしばらくすると、道真の配下の武士が見とがめ、誰何した。近衛兵の出で立ちをした武士が、石清水八幡宮に行幸している醍醐天皇の伝令を伝えにきたというと、道真の配下の武士たちは、ひれ伏した。
近衛兵姿の武士だけが、道真の宿舎に向かい、あとは川岸に歩いて行こうとするので、道真の兵は問いただした。
「中将様たちはどちらへいらっしゃるのですか」
「左大臣様へ報告に参るので」
「ああ、そうでございますか」
伊勢の目に、装飾を施した船が見えた。