芥川

91
御簾を抜けて室内にくる風はぬるかった。
式部はただでさえけだるいのに、暑さでおかしくなりそうだった。
境内に立っている無数の樹木で蝉が鳴きわめいていた。じんじんじんじん……。まるで陣痛のようだ。式部は腹の痛みがまたぶり返してくるように思えた。しかし腹はなんともなかった。
机の上の器を持った。熱い飲み物を口に含んだ。盆の上には、熱い飲み物がたっぷり入った陶器があった。昼まではこれを二回空にする。その間、ひたすら筆を動かす。昼以降も、これを二回空にする。そして、ひたすら筆を動かす。筆を動かすのは、物語を書きたいからではない。苦しさを忘れるためである。
(あの男は、夫をからかい、私をもてあそんだ。あの男が京の我が家に方違えでやってきたのは、ちょうど今日のような暑い日だった。)
式部はまた筆を止めて、物思いにふける。
境内の木々には蝉が鳴いていた。暑かった。それでも境内の至る所に屹立する巨大な岩が陰をつくり、そこから流れる空気はひんやりしていた。巨大な岩の一つに洞窟があった。
「ちょっと休んでくるわね」
式部は侍女に声をかけると、僧坊を出た。
廊で僧とすれ違うたびに、言葉をかけられた。式部はその都度、話を合わせ立ち話をし、また歩いた。
境内には、よく手入れされた樹木が立ち並んでいた。参道を下れば、すぐに琵琶湖のほとりに出る。琵琶湖を眺めるのもよい。式部は実際に、朝と夕はほとんど欠かさず琵琶湖のほとりに立って、水を見ていた。しかし、日中の休憩には洞窟を選んだ。
石山寺には、幼いころから父と一緒に、何度も参籠にきている。僧侶たちとは、すっかり顔なじみである。今回は、結婚後最初の石山寺詣でだ。父は亡くなったので、いない。夫は仕事で、いない。先日生まれた女の子は、自宅に置いてきたので、いない。たった一人である。
洞窟の岩壁に体をもたせかけて、じっと目を閉じる。冷たい岩が暑さに疲れた体を癒やしてくれる。
尼僧が冷たい飲み物を持ってきた。
「いかがですか」
式部は立ち上がって、お辞儀をした。
「ありがとうございます」
敷物をすすめると、老尼は端然と座り、雑談を始めた。そのうち執筆のことに及んだ。
「物語はお進みですか」
式部は顔を赤らめた。自分のことが話題になるのが、子どものころから苦手だった。まして自分の趣味のことだとなおさらそうだった。
「お話しするような立派なものではございませんが、なんとか形ができてきました」
老尼は興味深げに身を乗りだした。
「奥様はどのような物語をお書きになるのですか」
式部の顔がいっそう赤くなった。
「いえ、本当にお話しするようなものではなく、ただ自分の気休めに書いているだけでございますから、どうかご勘弁いただけますか」
「いえ、いえ、奥様が、大変物知りで、また、大変筆の立つお方であるというのは、誰も彼もが口をそろえて申しております。どうか私にも一度拝見させていただきたいのですが、いかがでしょうか」
「いえ、本当にそんな滅相もございません」
「いえいえ、そんなご遠慮なさらずに、どうかお願い申し上げます。実は、大奥様が奥様の物語をご覧になりたいとの仰せでして」
「大奥様?」
老尼は、式部の反応を確かめるような目で見ながら、答えた。
「はい。東三条院様でございます」
「東三条院様!」
式部は耳を疑った。
「本当に東三条院様がいらっしゃっているのですか? でも、また、なぜ?」
東三条院という院号でよばれる藤原詮子は、亡き円融天皇の妻であり、現在の一条天皇の実母である。
(私をもてあそんだあの男の姉……。)
几帳の向こうから声がした。
式部はただでさえけだるいのに、暑さでおかしくなりそうだった。
境内に立っている無数の樹木で蝉が鳴きわめいていた。じんじんじんじん……。まるで陣痛のようだ。式部は腹の痛みがまたぶり返してくるように思えた。しかし腹はなんともなかった。
机の上の器を持った。熱い飲み物を口に含んだ。盆の上には、熱い飲み物がたっぷり入った陶器があった。昼まではこれを二回空にする。その間、ひたすら筆を動かす。昼以降も、これを二回空にする。そして、ひたすら筆を動かす。筆を動かすのは、物語を書きたいからではない。苦しさを忘れるためである。
(あの男は、夫をからかい、私をもてあそんだ。あの男が京の我が家に方違えでやってきたのは、ちょうど今日のような暑い日だった。)
式部はまた筆を止めて、物思いにふける。
境内の木々には蝉が鳴いていた。暑かった。それでも境内の至る所に屹立する巨大な岩が陰をつくり、そこから流れる空気はひんやりしていた。巨大な岩の一つに洞窟があった。
「ちょっと休んでくるわね」
式部は侍女に声をかけると、僧坊を出た。
廊で僧とすれ違うたびに、言葉をかけられた。式部はその都度、話を合わせ立ち話をし、また歩いた。
境内には、よく手入れされた樹木が立ち並んでいた。参道を下れば、すぐに琵琶湖のほとりに出る。琵琶湖を眺めるのもよい。式部は実際に、朝と夕はほとんど欠かさず琵琶湖のほとりに立って、水を見ていた。しかし、日中の休憩には洞窟を選んだ。
石山寺には、幼いころから父と一緒に、何度も参籠にきている。僧侶たちとは、すっかり顔なじみである。今回は、結婚後最初の石山寺詣でだ。父は亡くなったので、いない。夫は仕事で、いない。先日生まれた女の子は、自宅に置いてきたので、いない。たった一人である。
洞窟の岩壁に体をもたせかけて、じっと目を閉じる。冷たい岩が暑さに疲れた体を癒やしてくれる。
尼僧が冷たい飲み物を持ってきた。
「いかがですか」
式部は立ち上がって、お辞儀をした。
「ありがとうございます」
敷物をすすめると、老尼は端然と座り、雑談を始めた。そのうち執筆のことに及んだ。
「物語はお進みですか」
式部は顔を赤らめた。自分のことが話題になるのが、子どものころから苦手だった。まして自分の趣味のことだとなおさらそうだった。
「お話しするような立派なものではございませんが、なんとか形ができてきました」
老尼は興味深げに身を乗りだした。
「奥様はどのような物語をお書きになるのですか」
式部の顔がいっそう赤くなった。
「いえ、本当にお話しするようなものではなく、ただ自分の気休めに書いているだけでございますから、どうかご勘弁いただけますか」
「いえ、いえ、奥様が、大変物知りで、また、大変筆の立つお方であるというのは、誰も彼もが口をそろえて申しております。どうか私にも一度拝見させていただきたいのですが、いかがでしょうか」
「いえ、本当にそんな滅相もございません」
「いえいえ、そんなご遠慮なさらずに、どうかお願い申し上げます。実は、大奥様が奥様の物語をご覧になりたいとの仰せでして」
「大奥様?」
老尼は、式部の反応を確かめるような目で見ながら、答えた。
「はい。東三条院様でございます」
「東三条院様!」
式部は耳を疑った。
「本当に東三条院様がいらっしゃっているのですか? でも、また、なぜ?」
東三条院という院号でよばれる藤原詮子は、亡き円融天皇の妻であり、現在の一条天皇の実母である。
(私をもてあそんだあの男の姉……。)
几帳の向こうから声がした。