芥川

92
洞窟内のひんやりした風が頬をなでた。
式部は歯切れよい声を聞いた。
「突然失礼いたしまして申し訳ありませんね」
帳がめくれて、気品のある顔立ちが、灯台の灯を受けた。やはり尼僧だった。しかし、ただの尼僧には見えなかった。風格があり、しかも美しかった。四十は過ぎていそうではあったが、若々しくて、肩の辺りで切りそろえた髪が、かえって長い髪よりも現代風でよいと思えた。
式部は、この尼僧を、作品の中に登場させてみたいと思った。
「初めまして。私は藤原詮子と申します。どうぞよろしくお見知りおきくださいませ」
尼僧が、そう言って、深々と頭を下げるので、式部は慌てて、丁重に挨拶をし、何度もお辞儀をした。詮子は式部のすすめる敷物に端然と座り、式部の近況を訊いたり、世間話をしたりしていたが、そのうちに物語のことに話題は移った。
「本当に不躾ではございますが、あなたのお書きになっている物語を拝見させていただくわけには参りませんでしょうか」
東三条院と呼ばれるその女性は、自分が世間で誰よりも恐れられている存在であることは、少しも意識していないのではないかと疑われるほど、腰が低かった。話しぶりも、明るくて気さくな感じで、親しみやすかった。
式部は、あまり明るくはないし、人と話をするのが苦手だったので、詮子のことをうらやましく思った。
「それでは、少しご検討いただきまして、もし拝見させていただけるのでしたら、今度私の小さな庵にお越し下さいませんか。でも、本当に無理はなさらないで結構でございますよ。執筆なさっている途中のものを他人に見せるのは、私も少し冷静になってみると、作者にとっては、きまりの悪いことであることを、今になって、やっと気付いた次第ですので、ちょっと、いきなり失礼なことをお願いしてしまったなと、今さらながら後悔しております」
式部がなかなか読ませようとしないので、仕舞いには詮子はこのように言うほかなかった。
詮子は帰り際に、物語を見せるということは抜きにして、一度自分が修行している寺に遊びに来てほしいと言った。実は見てほしいものがあるのだと言う。
式部は詮子にそれは一体何なのかと訊こうとしたが、もう洞窟内を歩く足音を響かせていた。
寺の夜は静かだった。式部の自宅は三条にあるから、人々がにぎやかに往来する気配が常にあるのだが、石山寺は、琵琶湖のほとりの岩山の上にあるから、まったく周囲に人の住んでいる気配がない。
寝つかれなかった。東三条院に物語を見せようかどうしようか、考え続けていた。考えていると、いつの間にか、あの男のことを考えている。
昨年の夏のことだった。
三条の藤原宣孝邸に急に藤原道長が訪れた。
美々しい牛車に大路の人々の目が引きつけられた。
「どうかしたのか? 大路がにぎやかだな」
宣孝は部屋にきた従者に訊いた。
「ハッ、道長様がお出でになりました」
宣孝は耳を疑った。
「何かの間違いではないのか」
「いえ、間違いございません。方違(かたたがい)でお出でになったそうでありまして、一日宿泊なさりたいとのことでございます」
宣孝は悪いことではないと思った。これを縁に道長との交際が深まれば、今後の昇進に弾みがつくかもしれない。
「それでは、早く酒の支度をしなさい。それから、信子をここへ呼んできなさい」
信子は今年十七になる宣孝の娘である。
「父上、何かご用でございましょうか」
几帳の横で信子がかしこまっている。大柄で派手な顔の作りであった。性格はおおらかで、愛嬌があった。白い上着の袖から青い衣(きぬ)が目にまぶしい。信子は何を着ても引き立つ。
「道長様が方違で見えた。心を込めてお世話申し上げるのだ。わかったな」
「はい」信子は神妙に答えた。
式部は歯切れよい声を聞いた。
「突然失礼いたしまして申し訳ありませんね」
帳がめくれて、気品のある顔立ちが、灯台の灯を受けた。やはり尼僧だった。しかし、ただの尼僧には見えなかった。風格があり、しかも美しかった。四十は過ぎていそうではあったが、若々しくて、肩の辺りで切りそろえた髪が、かえって長い髪よりも現代風でよいと思えた。
式部は、この尼僧を、作品の中に登場させてみたいと思った。
「初めまして。私は藤原詮子と申します。どうぞよろしくお見知りおきくださいませ」
尼僧が、そう言って、深々と頭を下げるので、式部は慌てて、丁重に挨拶をし、何度もお辞儀をした。詮子は式部のすすめる敷物に端然と座り、式部の近況を訊いたり、世間話をしたりしていたが、そのうちに物語のことに話題は移った。
「本当に不躾ではございますが、あなたのお書きになっている物語を拝見させていただくわけには参りませんでしょうか」
東三条院と呼ばれるその女性は、自分が世間で誰よりも恐れられている存在であることは、少しも意識していないのではないかと疑われるほど、腰が低かった。話しぶりも、明るくて気さくな感じで、親しみやすかった。
式部は、あまり明るくはないし、人と話をするのが苦手だったので、詮子のことをうらやましく思った。
「それでは、少しご検討いただきまして、もし拝見させていただけるのでしたら、今度私の小さな庵にお越し下さいませんか。でも、本当に無理はなさらないで結構でございますよ。執筆なさっている途中のものを他人に見せるのは、私も少し冷静になってみると、作者にとっては、きまりの悪いことであることを、今になって、やっと気付いた次第ですので、ちょっと、いきなり失礼なことをお願いしてしまったなと、今さらながら後悔しております」
式部がなかなか読ませようとしないので、仕舞いには詮子はこのように言うほかなかった。
詮子は帰り際に、物語を見せるということは抜きにして、一度自分が修行している寺に遊びに来てほしいと言った。実は見てほしいものがあるのだと言う。
式部は詮子にそれは一体何なのかと訊こうとしたが、もう洞窟内を歩く足音を響かせていた。
寺の夜は静かだった。式部の自宅は三条にあるから、人々がにぎやかに往来する気配が常にあるのだが、石山寺は、琵琶湖のほとりの岩山の上にあるから、まったく周囲に人の住んでいる気配がない。
寝つかれなかった。東三条院に物語を見せようかどうしようか、考え続けていた。考えていると、いつの間にか、あの男のことを考えている。
昨年の夏のことだった。
三条の藤原宣孝邸に急に藤原道長が訪れた。
美々しい牛車に大路の人々の目が引きつけられた。
「どうかしたのか? 大路がにぎやかだな」
宣孝は部屋にきた従者に訊いた。
「ハッ、道長様がお出でになりました」
宣孝は耳を疑った。
「何かの間違いではないのか」
「いえ、間違いございません。方違(かたたがい)でお出でになったそうでありまして、一日宿泊なさりたいとのことでございます」
宣孝は悪いことではないと思った。これを縁に道長との交際が深まれば、今後の昇進に弾みがつくかもしれない。
「それでは、早く酒の支度をしなさい。それから、信子をここへ呼んできなさい」
信子は今年十七になる宣孝の娘である。
「父上、何かご用でございましょうか」
几帳の横で信子がかしこまっている。大柄で派手な顔の作りであった。性格はおおらかで、愛嬌があった。白い上着の袖から青い衣(きぬ)が目にまぶしい。信子は何を着ても引き立つ。
「道長様が方違で見えた。心を込めてお世話申し上げるのだ。わかったな」
「はい」信子は神妙に答えた。