芥川

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 夏の月の下で管絃の催しが行われた。
 式部は七弦琴(しちげんきん)、信子は箏(そう)を演奏した。
 道長は横笛を吹いた。
 頭中将(とうのちゅうじょう)と左馬頭(さまのかみ)も道長に随行していた。頭中将は篳篥(ひちりき)を吹いた。左馬頭は笙(しよう)を吹いた。
 宣孝やその子息たちも加わり、演奏がたけなわの頃、雨が降ってきた。雨脚はみるみるうちに強くなり、吹き込んできた風雨で部屋の中は濡れた。侍女たちが楽器を片付け、式部と信子は奥で着替えた。道長と頭中将、左馬頭は、騒ぎながら、その隣の部屋に入ってきた。侍女たちや従者たちがみな片付けに回っていて、道長たちを案内できなかったので、迷い込んでしまったのだ。式部と信子は、化粧も落ちてしまい、部屋着になっていたので、彼らの前に顔を出して、自分たちの部屋に戻ることができなくなってしまった。仕方なく几帳の向こうで、道長たちが自分たちの部屋に戻るのを待つことにした。
 そのうちに宣孝が顔を出し、とんだことになってしまったと侘び、道長たちを部屋に案内すると言った。
「その前に熱い酒を一口飲ませていただけないか」
 体が冷えて、動きたくないのだと言う。三人は事実衣(きぬ)を重ねて寒そうにしていた。
 酒が入ると、今度は口に入れるものをほしがった。宴席ができているから、そちらへ案内すると言っても、いったん腰を据えたら、立つのが面倒になってしまったようで、動こうとしない。仕方なくここに料理を運び込むことになった。
 料理がすみ、膳を片付けると、そのまま酒を飲んで、話に盛り上がった。女の品定めが始まった。
 頭中将は女には三階級あると説明した。
 上級は皇族や大臣級の家の娘である。中級は地方官などを歴任するような普通の貴族の娘である。下級はそれよりも下位の貴族の娘である。
 頭中将は、上級の家の娘は、箱入り娘で大事にされて育つので、それなりに芸事にも通じているのだが、甘やかされていることがほとんどで、知り合ってみると、意外と失望することが多いものだと言う。
 道長は黙って聞いている。
「やはり中級の家の娘によい者が多いようです」
 几帳の向こう側では、式部が耳を澄まして男たちの話を聞いていた。こんな状況ではないと、なかなか男たちの女に対する本音を耳にすることはできない。物語を作ることが好きな式部にとって、この情報は、得がたく貴重なものであった。頭中将の声が続く。
「中級の家の者の中には、国司として地方で任期を終えるまでに、相当の資財を蓄える者もおります。中には公卿なども顔負けの邸宅を建てる者さえおります。なあ、山城守殿」
「いや、いや、私などは、どうも、たいしたものではございませんよ」
 夫の声が聞こえる。
「本当に立派なお屋敷ではないか。奥方も美しければ、娘も美しいと評判だ」
 道長が冷やかすような声を出した。夫は黙っている。式部は恥ずかしくて顔がほてった。
「その娘を見てみたいものだな」
「世間知らずで、左大臣様のお目にかけるのは、恥ずかしい次第ですが、お望みであれば、お情けをかけていただきたく存じます」
「それは楽しみだな」
 式部は思わず信子の方を見た。ほんのかすかな明かりの中で、信子はうつむいていた。式部の目には、信子が勝ち誇っているように見えた。
(私は中級の娘として生まれ、中級の妻として枯れていく。ところが、信子は中級の娘として生まれ、上級の妻として花開く。私も道長様のように、男らしく、立派で、思慮深い方のところへ縁づきたかった。)
 式部は、信子から顔を背けて、そっと涙を流した。
「それにしても、中級の娘とは、それほどよいものなのか、左馬頭?」
「頭中将様もおっしゃいましたが、とにかく財力がありますから、教養もありますし、衣装もすばらしいですな」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日