芥川

芥川
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94

 激しい雨がやむと、暑さが戻ってきた。塗籠(ぬりごめ)は早くも蒸してきた。
 女の品定めに夢中になっていた男たちは、汗が流れているのにようやく気が付いた。
「この部屋は蒸すな」
 道長が言うと、宣孝は塗籠の外へ出て、また戻ってきた。
「もうすっかり雨も上がりましたので、簀子(すのこ)で月を見ながら、お飲みになりませんか」
「それはいいな」
 道長は高欄に寄りかかって酒を飲み始めた。頭中将と左馬頭も思い思いの格好で、酒を飲み始めた。また話に花が咲き、塗籠から出て行っても気付かれそうもないと思い、式部と信子は侍女に助けられながら、ようやく自室に戻ることができた。

 対の屋で、式部は寝つかれずに、まだ寝殿で話をしている男たちの声を聞いていた。
 また時が経った。式部はまだ寝つかれなかった。男たちも部屋に戻ったようで、辺りは静まり返っている。ただ魚のはねる音が時々聞こえる。
 今ごろ、道長は信子のところへ行っただろう。式部はこれまで道長に対して特別な思いを持ったことはなかったし、年の離れた夫を嫌っていたわけでは決してなかったが、今日、世間で評判になった道長を目にすると、いろいろな気持ちが起こった。やはり颯爽としている。夫が不満なわけではないが、やはり道長はまばゆくなるほどの輝きがある。式部と年はあまり変わらない。家柄も、何かちょっとした神の采配によって、格差が生じてしまってはいるが、根は同じ所にある。今が夫と結婚する前で、今日のような機会があったならば、道長と縁があったとしても決しておかしくはない家格である。信子のように……。信子は、信子は、運がいいのである。式部は、晴らしようのない思いを持て余していた。考え事をしていて、襖が開いたのに気付かなかった。ハッと思った時は、もう遅かった。式部は抵抗したが、途中で力がなくなった。
 とても静かで申し訳なさそうな声だった。
「本当に私のことを誤解なさらないでください」
 式部は泣いていた。
「夫の目を盗んで人の妻の部屋に忍び込むなんて、何てひどいお方なんでしょうか」
 道長は何度も何度も頭を下げている。
「本当に申し訳ありませんでした。しかし、このような機会を逃したら、私の気持ちをあなたにお伝えすることができないと思い、勇気を振り絞って、こちらへ忍んで参ったのです。私は昔からあなたに思いを寄せていたのです。大変気立てがお優しく、そして、どこの誰よりも賢いお方と、尊敬の念を抱いております。私があなたを妻にしたいと思い、どうしたものかとあれこれ思い悩んでいるうちに、あなたが宣孝殿とご結婚なさると伺い、私は一人で毎夜枕を濡らしておりました」
 道長も涙を流している。
 その涙を見て、式部は心が動くのをどうすることもできなかった。その涙が偽りではないかと、頭では思うが、胸は激しく燃えた。
 道長はまた式部を引き寄せた。式部は今度は道長のたくましい胸を両腕で抱きしめた。
 夏の月が西の山に沈んだ。
 遣水に朝の日が反射している。
 中廊門では宣孝が車に乗り込む道長を見送っている。寝殿の御簾越しには、それが、屏風に描かれている人物のように見えた。
「道長様、娘はいかがでしたか」
 道長は照れたように言った。
「いや、昨夜は酔ってしまって、自分の部屋ですぐに寝てしまったのですよ」
 宣孝は困ったような顔をした。
「それは残念でございました。では、近いうちに改めて、お越し願いませんでしょうか」
 道長は本当にうれしそうな表情をした。
「いいんですか。では、厚かましいとは思いますが、また、今晩参りますよ」
「今晩ですか?」
 さすがに宣孝は驚いた。
 その宣孝の耳に道長は口を寄せた。
「実は、昨夜とは別の侍女をそなたに差し上げようと思うのだが」
 宣孝はにんまりした。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日