芥川

95
朝から蒸し暑かったが、日中はさらに気温が上がり、夕方になっても陽ざしが強烈だった。
「お母様、囲碁をなさいませんか」
信子が単衣姿で入ってきた。胸がはだけている。豊かな大柄で、顔立ちが派手である。
「あら、信子さんたら、はしたないわよ。垣間見でもしている人がいたら大変じゃないの」
「大丈夫よ。こんな暑い日に出歩く人はいませんわ」
道長はどきっとした。すでに宣孝邸に送り込んでいた侍女の常陸が手際よく手引きしたので、ここまでは問題がなかったが、やはり気持ちが落ち着かなかった。しかし、どうしても式部と信子の普段の様子が見たかったのだ。
道長が式部に言ったことは本当だった。学才があり、また実際の処置にも長けている。美しく、慎み深く、物腰が柔らかい。道長は小さな頃から、藤原北家の一族内にその名を聞き、一、二度姿を目にしたことがあった。どうにかして式部に思いを伝えたいという欲求に駆られたことも、何度となくあった。侍女に手紙を託したことが一度ならずあった。しかし、不思議なことに、そのたびに、何かしら支障が出て来て、すれ違ったまま、彼女は地方官の夫になってしまったのだ。
その人とついに逢うことができた。朝別れてから、ずっと式部のことを考えている。また逢いたい。ずっと一緒にいたい。しかし、式部は人妻である。年の離れた夫から強引に奪い取るということもできないことではない。昔、時平は業平の孫娘がほしくて、年の離れた夫から強引に奪い取ったそうだ。が、そういうことはしたくなかった。
垣間見をしたのは、式部をあきらめるためだった。昼間の姿を見たら、思っていたのとは違い、百年の恋も冷めるかもしれないと思った。しかし、目の前で囲碁を打っている賢そうな人は、評判通りの素敵な女性だった。あの人と私は一夜を過ごしたのか。道長はそう思うと、体がどうしようもなくほてってくるのだった。それに比べて、式部と対戦している女の何とだらしないことか。あれが信子か。宣孝には、信子を妻にすることを何となく承知してしまったが、どうも気が進まない。華やかで美しく体も豊かである。しかし、自分には何か一つ合わないような気がするのだ。
そんなふうに道長が考え事に没頭していると、背中をさすられた。常陸だった。道長が振り向くと、目で合図をする。それが意味することがわかったので、道長は音を立てずにその場を去った。道長が立ち去ると、垣根の内側に宣孝が入ってきて、大声を出した。
「信子、何て姿で囲碁を打っているのだ。もう道長様がお越しになるかもしれないから、早く用意をしなさい」
「はい」
信子は、素直に従い、部屋から出て行った。
信子が出て行くと、宣孝は簀子に腰を下ろした。
「夕べは遅くまで騒がしくしてすまなかったな」
頭をかいて、申し訳なさそうにしている。
式部の方こそ、申し訳ない気持ちで一杯だったが、謝ることはできないことだった。それに、夫の様子で、昨日道長が侍女をあてがったことがわかった。今日来た常陸だろうか。いや、違う。夫は、常陸が来る前、来た時、来てから、物珍しい様子で見ている。昨日知った女なら、夫はもっとなれなれしく接するはずだ。これから知ることになる女だから、かしこまっているのだ。
女に目のない夫も夫だが、女を餌に人の妻を盗む道長も道長だと思った。しかも、道長は今夜は信子に会うために来るのである。
自分はいったい何なんだろう。式部は思った。夫は時の権力者に嘲弄されている。夫は時の権力者によって、その妻も、その娘も、自由にされている。式部は無性に腹が立ってきた。しかし、その腹立ちは、本当に権力者の横暴によるものだろうか。道長が今夜来るのに、それは自分のために来るのではないことへの恨みのためではないだろうか。式部は両手で頭をかいた。
「お母様、囲碁をなさいませんか」
信子が単衣姿で入ってきた。胸がはだけている。豊かな大柄で、顔立ちが派手である。
「あら、信子さんたら、はしたないわよ。垣間見でもしている人がいたら大変じゃないの」
「大丈夫よ。こんな暑い日に出歩く人はいませんわ」
道長はどきっとした。すでに宣孝邸に送り込んでいた侍女の常陸が手際よく手引きしたので、ここまでは問題がなかったが、やはり気持ちが落ち着かなかった。しかし、どうしても式部と信子の普段の様子が見たかったのだ。
道長が式部に言ったことは本当だった。学才があり、また実際の処置にも長けている。美しく、慎み深く、物腰が柔らかい。道長は小さな頃から、藤原北家の一族内にその名を聞き、一、二度姿を目にしたことがあった。どうにかして式部に思いを伝えたいという欲求に駆られたことも、何度となくあった。侍女に手紙を託したことが一度ならずあった。しかし、不思議なことに、そのたびに、何かしら支障が出て来て、すれ違ったまま、彼女は地方官の夫になってしまったのだ。
その人とついに逢うことができた。朝別れてから、ずっと式部のことを考えている。また逢いたい。ずっと一緒にいたい。しかし、式部は人妻である。年の離れた夫から強引に奪い取るということもできないことではない。昔、時平は業平の孫娘がほしくて、年の離れた夫から強引に奪い取ったそうだ。が、そういうことはしたくなかった。
垣間見をしたのは、式部をあきらめるためだった。昼間の姿を見たら、思っていたのとは違い、百年の恋も冷めるかもしれないと思った。しかし、目の前で囲碁を打っている賢そうな人は、評判通りの素敵な女性だった。あの人と私は一夜を過ごしたのか。道長はそう思うと、体がどうしようもなくほてってくるのだった。それに比べて、式部と対戦している女の何とだらしないことか。あれが信子か。宣孝には、信子を妻にすることを何となく承知してしまったが、どうも気が進まない。華やかで美しく体も豊かである。しかし、自分には何か一つ合わないような気がするのだ。
そんなふうに道長が考え事に没頭していると、背中をさすられた。常陸だった。道長が振り向くと、目で合図をする。それが意味することがわかったので、道長は音を立てずにその場を去った。道長が立ち去ると、垣根の内側に宣孝が入ってきて、大声を出した。
「信子、何て姿で囲碁を打っているのだ。もう道長様がお越しになるかもしれないから、早く用意をしなさい」
「はい」
信子は、素直に従い、部屋から出て行った。
信子が出て行くと、宣孝は簀子に腰を下ろした。
「夕べは遅くまで騒がしくしてすまなかったな」
頭をかいて、申し訳なさそうにしている。
式部の方こそ、申し訳ない気持ちで一杯だったが、謝ることはできないことだった。それに、夫の様子で、昨日道長が侍女をあてがったことがわかった。今日来た常陸だろうか。いや、違う。夫は、常陸が来る前、来た時、来てから、物珍しい様子で見ている。昨日知った女なら、夫はもっとなれなれしく接するはずだ。これから知ることになる女だから、かしこまっているのだ。
女に目のない夫も夫だが、女を餌に人の妻を盗む道長も道長だと思った。しかも、道長は今夜は信子に会うために来るのである。
自分はいったい何なんだろう。式部は思った。夫は時の権力者に嘲弄されている。夫は時の権力者によって、その妻も、その娘も、自由にされている。式部は無性に腹が立ってきた。しかし、その腹立ちは、本当に権力者の横暴によるものだろうか。道長が今夜来るのに、それは自分のために来るのではないことへの恨みのためではないだろうか。式部は両手で頭をかいた。