芥川

芥川
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96

 その夜は寝苦しかった。暑くてとても寝られないと思った。すぐ道長のことを思った。道長は信子と寝ているのだ。昼間見た信子の豊かな胸を思い出した。あの胸を道長は愛おしんでいるのだ。一昨日の夜、式部の胸を愛おしんだように。式部の胸は張り裂けそうだった。道長にあてがわれた常陸を夫の宣孝が愛おしんでいるということは、ほとんど式部の意識に上らなかった。道長に会いたかった。
 襖がかすかな音を立てた。
 式部はびくっとした。昨日の夜を思い出した。
 道長だった。
 式部はうれしかった。しかし、式部は悲しかった。式部は山城守の妻だった。式部は道長に恋しても、道長の妻にはなれなかった。
「道長様、どうして?」
 道長は真面目な目をしている。本当に申し訳なさそうな目をしている。
「あなたに会いに来たのです」
「だめです。信子のところへいらっしゃらねば」
「しかし……」
 道長は両腕で式部を包んだ。
 式部も道長の首に手を回そうとしたが、持ち上げた手で、道長の手を払い、後ずさった。また道長に抱きしめられる。
 道長はさまざまなことを言った。
 式部は道理を説いた。自分をどうするつもりなのか? 信子を妻にしなかったら、宣孝に何と言うつもりなのか?
 道長はさすがに答えることができなかった。道長の手が少し緩んだ。
 その時を逃さず、式部は道長の手を抜け出した。すぐに道長はつかまえようとしたが、その手に残ったのは、式部の袿だけだった。式部は走った。途中で宣孝の部屋から常陸のかん高い声がした。式部の目から涙がこぼれた。こんな夫に操を立てる義理があるのか? しかし、すぐに思い直した。信子を道長の妻にすれば、いずれ信子の子どもが公卿に列する日が来るかもしれない。この家が将来栄える日のために、女は耐え忍ぶしかないのだ。感情にまかせて、自分の喜びを優先させれば、一時は幸福で満たされるが、後ですべてを失うだろう。
 信子の侍女の局だった。
「どうかしましたか?」
 侍女は驚いた顔付きで式部を見た。
「道長様をご案内いたしました」
 式部は落ち着いて、笑顔を見せた。
「道長様、こちらです」
 道長も落ち着き払っていた。
「これは奥方様、ご案内いただきありがとうございました」
「どういたしまして」
 式部は侍女を見た。
「さあ、道長様をご案内なさい」
「かしこまりました。道長様、どうぞ、こちらでございます。信子様が、お待ちかねです」
 二人が消えていくのを、式部は見送った。侍女が戸を閉めた。
 道長は時々信子に会いに来た。宣孝だけでなく、式部にまでも必ず土産を持ってきた。常陸が式部に届けに来た。常陸はそっと手紙を渡した。
 一人になって式部は手紙を開いた。

  明日から清水寺に参籠いたします。

 式部は驚いた。式部も明日から清水寺に参籠するのだ。なぜ知ったのだろう? 答えは簡単だった。常陸だった。
 式部は参籠を取りやめたいと夫に言ったが、夫は式部を追い出さんばかりの調子で、清水寺行きを勧めた。道長がまた女を連れてくる手はずになっているのだろうと思った。
 清水に行けば、道長のいやな顔を見る。清水に行かなければ、道長のところから来る女のいやな顔を見る。自分の居場所はどこにもなかった。しかし、最近家にいると塞ぎ込むことが多いので、外へ出てみたかった。清水に行くことにした。
 清水で勤行していると道長のことばかり思った。道長はいなかった。
 夕方、道長の侍女が手紙を持ってきた。

  輿に乗ってください。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日