芥川

芥川
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 月が怪しいまでに美しかった。
 清水の参道はにぎやかだった。それとは対照的に鳥辺野はひっそりとしていた。陰気な灯明が見えるのは、葬儀をしている小さな寺であろうか。その情景は式部の想像をたくましくした。貴公子に連れ出されて古い別荘にきた、身寄りのない中級階級の女が、物の怪に取り憑かれて急死する。世間に知られないように貴公子の従者が鳥辺野にある親類の寺で密かに葬儀をして、火葬する。
(貴公子の名は何としよう?)
 簾越しにまた鮮やかな月の光が式部の目を射た。
(光、光にしよう。天皇にとても寵愛された更衣の産んだ皇子なのだけれど、更衣は身分が低く、後ろ盾となるべき父大納言も亡くなっていたから、皇太子にするわけにもいかず、天皇は泣く泣く皇子を臣籍降下させ、源氏の姓を賜う)
 物語の構想を描くのに夢中になっていた式部は、懐かしい声によって、現実に引き戻された。
「清水寺では、人目が多いですから、静かなところを見つけておきました」
 道長の優しそうな笑顔が、輿の中から見えた。
(私の光源氏だわ)
 心の中のそのつぶやきのため、式部はおかしくなって笑い出した。
「何を笑っているのですか?」
「あら、ごめんなさい。何でもないの。あなたの顔を見たらうれしくて」
 式部はごまかすために道長の首に腕を回した。
 道長は式部を抱きとめて、そのまま高く持ち上げた。
「あら、恐いわ。降ろしてよ」
「ハハハハハ、部屋の中へ連れて行ってあげますよ」
 道長はたくましい両腕で式部を抱え直した。式部は仰向けになり、肩の辺りを道長の左腕で、腿の辺りを道長の右腕で支えられ、そのまま建物に向かっていった。
「ここはどこですか?」
 式部は道長の顔を見上げて言った。
「河原院(かわらのいん)です」
「河原院?」
 式部の顔が引きつった。
「どうしたのですか?」
「だって、源融の幽霊が出るとか、東国から上京した夫婦が泊まったときに奥さんが鬼に捕まって殺されたとか、恐ろしい話がたくさんある場所ではありませんか」
「ハハハハハ、私が付いているのだから平気ですよ。それに、すっかりきれいに準備させたんですよ。見て下さい」
 道長が体の向きを変えると、強い月の光と赤々と燃える篝火で庭園が美しく浮かび上がっていた。
「すっかり荒廃していると聞いたことがありますから、ここまで手入れするのは大変でしたでしょう」
「さ、食事も用意してあります。中へどうぞ」
 道長は式部を膳の前に降ろした。
 鯛を焼いたもの、蒸した鮑、煮た野菜など、どれも上品な味だった。
「新鮮な鯛ですね」
「難波から取り寄せたのです」
「遠いではありませんか!」
「宇治川、桂川の船で、意外と新鮮な魚が京の市場に出回っているんですよ」
「そうなんですか?」
「ハハハハハ、箱入り娘なんですねえ」
「干物の魚ばかり食べているのが、箱入り娘かしら?」
「あ、こりゃ、一本取られました。ハハハハハ」
 食事が済むと、道長は式部を引き寄せた。式部は考えてきたことを言った。
「私が今日ここへきたのは、物事をはっきりさせるためです」
 道長はきちんと座った。
「私はあなたに逢いたいと思いました」
 道長はうれしそうに微笑んだ。
「しかし、それは間違っています」
 道長は悲しそうな顔をした。
「私には夫がいるからです。それに、あなたは私たちの娘の婿ではないですか。私はこれ以上今の生活をすることはできません。私は出家することに決めました」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日