芥川

98
灯台の灯は明るかったが、明るいのはその及ぶ範囲だけだった。灯の光が及ばない闇に何かいるような気がした。式部は感覚が鋭かった。
本当は何もかも忘れて道長に身を任せようと思っていた。しかし、何かがそうさせなかった。もちろん、道長に言ったことは、いつも式部が考えていることである。考えているどころか、道長にもいつも言っていることである。いわば決まり文句であった。最近では、言ったからといって、何ということのない言葉になっていた。結局、道長にあれこれとかき口説かれて、言うなりになっているのであった。
しかし、今夜は、式部の表情がいつもと違っていたからか、あるいは道長も屋敷のただならぬ気配に気付いたからか、厳かな表情を崩すことはなかった。
式部は、心の中でひたすら念仏を唱えた。道長のことを守ってほしいと念じた。道長は隣で静かだった。生きていないのではないかと思うほど静かだった。しかし、呼ぶと返事をする。式部には用事はなく、ただ呼んだだけだとわかると、また静かになる。
倫子様の顔だった。倫子様には式部はかつて仕えたことがある。倫子様が道長と結婚する少し前だった。倫子様のもとへ訪れた道長が、ふと式部に話しかけた。『漢書』の内容で、忘れてしまったことがあるが、知らないかということだった。式部は知っていたので、教えた。『漢書』を実際に確かめたいが、家の書庫を探しても見当たらないので、もし持っていたら見せてほしいと、さらに言ってきた。では、用意しておきますと言うと、とてもうれしそうにした。その夜、倫子様に呼ばれた。道長が『漢書』が見つかったから、もう見せてもらわなくてもよいと伝えてほしいということだった。その時は、何とも思わなかったが、今にして思うと、倫子様は、恐い顔をしていた。今なら、すべてがわかる。すべてはそういうことだったのだ。道長は私に会いたかったのだ。近くで耳をそばだてていた倫子様の侍女が、倫子様に耳打ちし、倫子様が、道長に『漢書』を見せたのだ。道長は私に会う口実を失った。私が倫子様に匹敵するような家柄の娘なら、こういうことはされなかっただろう。私は、あの時に、道長の妻の一人になる可能性があったのだ。
闇の中の倫子様が口を開いた。
「あなたのような何の取り柄もない女を、あの人がかわいがるなんて、許せないことだわ」
その声は、重く、低かった。
式部は念仏を唱えた。道長を守って下さいと祈った。
「あなたはいやなことをぶつぶつ唱えているから、嫌いだわ。いいわ、今日のところは、あなたを見逃してあげるわ。私は、別の女のところへ行きます。でも、次はあなたの番よ」
式部は跳ね起きた。全身が汗でびっしょりだった。すぐに道長を揺り起こした。道長も汗でびっしょりだった。
「いやな夢を見た」
道長が夢の話をした。式部は同じ夢を見たことを言った。
別の部屋から叫び声が聞こえた。
「誰か来てください。淡路が大変です」
淡路とは道長の侍女の一人である。
家中が明るくなった。淡路の部屋に人があふれた。淡路は意識を失っていた。
「誰か薬師を呼んでこい」
その必要はなかった。淡路はすでに息をしていなかった。
従者たちがてきぱきと動いた。
「私の親類に鳥辺野の寺で住職をしている者がおりますので、淡路をそこへ運び、万事よいように執り行っておきますので、殿はお屋敷にお戻りなさいませ」
道長は従者たちに後を任せ、自邸に戻った。道長は式部にひたすら侘びた。また、すぐに連絡を取ると言うと、馬にまたがった。
式部も自宅に戻った。もうすっかり日は高くなっていた。式部の腹心の侍女が、うまく采配してくれていたので、誰も怪しまなかった。体調がすぐれないので、参籠を早めに切り上げてきたということにしてあったが、式部は本当に気分が悪かった。
淡路は私のように道長が隠れて愛していた女なのだ。式部は自分の運命を呪った。
本当は何もかも忘れて道長に身を任せようと思っていた。しかし、何かがそうさせなかった。もちろん、道長に言ったことは、いつも式部が考えていることである。考えているどころか、道長にもいつも言っていることである。いわば決まり文句であった。最近では、言ったからといって、何ということのない言葉になっていた。結局、道長にあれこれとかき口説かれて、言うなりになっているのであった。
しかし、今夜は、式部の表情がいつもと違っていたからか、あるいは道長も屋敷のただならぬ気配に気付いたからか、厳かな表情を崩すことはなかった。
式部は、心の中でひたすら念仏を唱えた。道長のことを守ってほしいと念じた。道長は隣で静かだった。生きていないのではないかと思うほど静かだった。しかし、呼ぶと返事をする。式部には用事はなく、ただ呼んだだけだとわかると、また静かになる。
倫子様の顔だった。倫子様には式部はかつて仕えたことがある。倫子様が道長と結婚する少し前だった。倫子様のもとへ訪れた道長が、ふと式部に話しかけた。『漢書』の内容で、忘れてしまったことがあるが、知らないかということだった。式部は知っていたので、教えた。『漢書』を実際に確かめたいが、家の書庫を探しても見当たらないので、もし持っていたら見せてほしいと、さらに言ってきた。では、用意しておきますと言うと、とてもうれしそうにした。その夜、倫子様に呼ばれた。道長が『漢書』が見つかったから、もう見せてもらわなくてもよいと伝えてほしいということだった。その時は、何とも思わなかったが、今にして思うと、倫子様は、恐い顔をしていた。今なら、すべてがわかる。すべてはそういうことだったのだ。道長は私に会いたかったのだ。近くで耳をそばだてていた倫子様の侍女が、倫子様に耳打ちし、倫子様が、道長に『漢書』を見せたのだ。道長は私に会う口実を失った。私が倫子様に匹敵するような家柄の娘なら、こういうことはされなかっただろう。私は、あの時に、道長の妻の一人になる可能性があったのだ。
闇の中の倫子様が口を開いた。
「あなたのような何の取り柄もない女を、あの人がかわいがるなんて、許せないことだわ」
その声は、重く、低かった。
式部は念仏を唱えた。道長を守って下さいと祈った。
「あなたはいやなことをぶつぶつ唱えているから、嫌いだわ。いいわ、今日のところは、あなたを見逃してあげるわ。私は、別の女のところへ行きます。でも、次はあなたの番よ」
式部は跳ね起きた。全身が汗でびっしょりだった。すぐに道長を揺り起こした。道長も汗でびっしょりだった。
「いやな夢を見た」
道長が夢の話をした。式部は同じ夢を見たことを言った。
別の部屋から叫び声が聞こえた。
「誰か来てください。淡路が大変です」
淡路とは道長の侍女の一人である。
家中が明るくなった。淡路の部屋に人があふれた。淡路は意識を失っていた。
「誰か薬師を呼んでこい」
その必要はなかった。淡路はすでに息をしていなかった。
従者たちがてきぱきと動いた。
「私の親類に鳥辺野の寺で住職をしている者がおりますので、淡路をそこへ運び、万事よいように執り行っておきますので、殿はお屋敷にお戻りなさいませ」
道長は従者たちに後を任せ、自邸に戻った。道長は式部にひたすら侘びた。また、すぐに連絡を取ると言うと、馬にまたがった。
式部も自宅に戻った。もうすっかり日は高くなっていた。式部の腹心の侍女が、うまく采配してくれていたので、誰も怪しまなかった。体調がすぐれないので、参籠を早めに切り上げてきたということにしてあったが、式部は本当に気分が悪かった。
淡路は私のように道長が隠れて愛していた女なのだ。式部は自分の運命を呪った。