芥川

芥川
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 御簾が風で揺れた。
 東三条院は顔を上げた。
「このような物語をよく読ませていただきました。本当に申し訳ありません。弟はあなたをここまで苦しめていたのですね」
 東三条院は、本当に悲しそうだった。涙がこぼれた。
「しかし、弟はあなたを本当に愛しているのだと思います。いろいろな事情で、私たちは、自分の感情を殺して生きなければなりません。複雑な事情がなく、自分の思い通りに生きていけるなら、弟はあなたと暮らしたいのです。私は小さい頃から、弟の気持ちを知っていますから、これは真実と受け止めていただいて結構です」
 式部は深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます。本当に、このような恥ずかしい文章をお読みいただくだけでなく、そのような情け深いお言葉まで頂戴いたしまして」
「ところで」
 東三条院が表情を改めた。来るなと式部は思った。
「この物語を、実在の人物ではなく、架空の人物として作り直すことはできませんか」
 来たと式部は思った。
「もちろんです。それはもう考えております。道長様のことは決してお出ししません」
 東三条院は表情を緩めた。
「ありがとうございます。こんな無理を聞いていただいて、本当に感謝申し上げます。それで、弟は何と?」
「ええ、光源氏とさせていただこうと思います」
「光源氏?」
 式部が人物設定を説明すると、東三条院は楽しそうに笑った。ひとしきり笑うと、また東三条院は表情を改めた。
「あなたが私のご無理を引き受けていただいたお礼に、私たちの秘密をお教えしましょう。ただし、あなたにそれを聞く覚悟があればですけれども」
「覚悟?」
「ええ、この話を聞いたら、あなたにも私たちの仲間になってもらいます。私は待っていたのです。あなたにこの話をする日を」
「どういうことですか?」
「あなたは、学才があり、秘密を守れる人です。実はこの物語を読ませていただいた一番の理由は、あなたの文章力をこの目で確かめることでした」
「お話がよく理解できませんが」
「これを読んでいただいた方が、話が早いでしょう」
 東三条院は古い日記を出した。
「これは?」
「紀貫之の日記です」
「『土佐日記』ならもう読みましたが」
「あれは虚構の日記です。これは本当の日記です」
「本当の日記?」
 式部は日記を手に取った。開こうとすると、東三条院が言った。
「これをお読みになったら、後戻りはできませんよ」
 厳しい表情だった。
 式部は失うものは何もなかった。首を縦に振った。
 式部が読み始めると、東三条院は奥に入った。

 私は雪のように舞い散る梅の花を詠んだ業平の歌を春の部に書き込んだ。また伊勢のことを思い浮かべた。古今集の編集作業はつらかった。伊勢のことばかり思い出すからであった。
 「吉野河」の歌は伊勢と結ばれた翌朝に贈った歌だった。その返しが「あひ見ずは」であった。そうだ、これは読人しらずにしてほしいと言っていたぞ。「伊勢」と書こうとした筆を上に上げた。しばらく経ってから私はまた筆を下ろした。紙には「読人しらず」と書いた。
 あのとき伊勢と牛車に乗り、外では商人たちの威勢のいい声が聞こえた。何だか妙な感じだった。私は急におかしくなった。大きな声で笑った。笑いながら涙をこぼした。涙はなかなか止まらなかった。
 私は新しい物語を作るための覚え書きを書いた冊子を出した。
「二人は商人たちの声で朝目覚める。女は恥ずかしがる」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日