芥川

103
家が音を立てた。誰かが歩いているので、木が音を立てるのだ。それはかすかだが、式部はそれを聞いて、貫之の日記から顔を上げた。戸が開き、詮子が入ってきた。
「読み終わりましたか?」
もう日はだいぶ傾いていた。
「はい。すっかり長居をいたしまして申し訳ございません。そろそろお暇いたしませんと」
外にいた式部の侍女も、帰り支度をして入ってきた。詮子は侍女の顔をちらっと見て、また式部を見つめた。
「あら、本当にもうすっかり遅くなりましたわね。どうですか。何もありませんが、お食事でも召し上がってから、お帰りになれば」
「いえ、いえ、夕食までには戻ると言ってありますので、寺ではもう用意を済ませているでしょう」
「そうですか。何もお構いしませんで、何だか悪いですわね」
「いえ、今度お伺いするときには、ぜひお相伴させていただきます」
詮子は端然と座っている。式部が立ちあがりかけた。
「明日はお忙しいですか?」
式部はまた腰を下ろした。
「いえ、一日中暇ですわ」
「浮御堂(うきみどう)に参りませんか?」
「浮御堂?」
「ええ、琵琶湖に浮かんでいるお堂なんですよ。この日記はそこに保管されているのです。明日、私の従者が日記を返却に行くので、もしよろしければと思いまして。そこには業平の日記もありますよ」
「業平の日記」
式部の顔を見て、詮子は笑った。
「ほら、ご覧になりたいでしょう。それでは、きまりね。頼範、ご挨拶なさい」
よく陽に焼けたたくましい若者が入ってきた。
「こちらは山城守の奥様よ」
「山城守の家内です。よろしくお願いいたします」
式部は手をついて、お辞儀をした。几帳の向こうから、歯切れよく若々しい声が聞こえた。
「源頼範と申し上げます。どうかお見知りおきくださいますよう、お願い申し上げます」
板敷に額を付けて、そのまま動かない。
「もういいわよ。明日、浮御堂にこれを返却してくれますか。奥様もご一緒ですからね。失礼のないように十分お勤めなさい」
「はっ」
頼範は額を付けたまま応えた。
「でも、式部、浮御堂までは馬を使わないと行けないわ。何しろ五里もあるのですから。歩いたら、一日で行って帰るのは難儀よ。やはり、業平の日記は頼範に届けてもらいましょう」
「いえ、東三条院様、私は、越前にいたころは、馬を乗りまわすのが日課でした。五里ぐらい何でもありませんわ」
「しかし、殿方にお顔を見られるのは、おいやでしょう?」
「いえ、女房暮らしが長いですから、男の方とお話をするのは、慣れておりますわ」
「あら、そう。まあ、あなたが構わないなら」
「それでは、明日の支度もありますので、この辺で失礼いたします」
式部と侍女は恭しく挨拶をして部屋から出て行こうとした。
「それから」
詮子が呼び止めた。
「あなたの書いているものは、浮御堂に保管してもらっておいたら。一応、念のためですけどね」
これがねらいだったのだと式部は思った。式部はあらがわなかった。
「そうですね。そうしましょう。あのような書き損じが誰かの目に止まったら恥ずかしいですからね」
「すまないわね。本当に」
「いいえ、かえって、この方がよかったんですわ」
外へ出ると侍女が訊いた。
「よろしいんですか、奥様」
「大丈夫。あなたが付いているんですから」
侍女は越前から付いてきた武士の娘だった。馬の名手だった。
「読み終わりましたか?」
もう日はだいぶ傾いていた。
「はい。すっかり長居をいたしまして申し訳ございません。そろそろお暇いたしませんと」
外にいた式部の侍女も、帰り支度をして入ってきた。詮子は侍女の顔をちらっと見て、また式部を見つめた。
「あら、本当にもうすっかり遅くなりましたわね。どうですか。何もありませんが、お食事でも召し上がってから、お帰りになれば」
「いえ、いえ、夕食までには戻ると言ってありますので、寺ではもう用意を済ませているでしょう」
「そうですか。何もお構いしませんで、何だか悪いですわね」
「いえ、今度お伺いするときには、ぜひお相伴させていただきます」
詮子は端然と座っている。式部が立ちあがりかけた。
「明日はお忙しいですか?」
式部はまた腰を下ろした。
「いえ、一日中暇ですわ」
「浮御堂(うきみどう)に参りませんか?」
「浮御堂?」
「ええ、琵琶湖に浮かんでいるお堂なんですよ。この日記はそこに保管されているのです。明日、私の従者が日記を返却に行くので、もしよろしければと思いまして。そこには業平の日記もありますよ」
「業平の日記」
式部の顔を見て、詮子は笑った。
「ほら、ご覧になりたいでしょう。それでは、きまりね。頼範、ご挨拶なさい」
よく陽に焼けたたくましい若者が入ってきた。
「こちらは山城守の奥様よ」
「山城守の家内です。よろしくお願いいたします」
式部は手をついて、お辞儀をした。几帳の向こうから、歯切れよく若々しい声が聞こえた。
「源頼範と申し上げます。どうかお見知りおきくださいますよう、お願い申し上げます」
板敷に額を付けて、そのまま動かない。
「もういいわよ。明日、浮御堂にこれを返却してくれますか。奥様もご一緒ですからね。失礼のないように十分お勤めなさい」
「はっ」
頼範は額を付けたまま応えた。
「でも、式部、浮御堂までは馬を使わないと行けないわ。何しろ五里もあるのですから。歩いたら、一日で行って帰るのは難儀よ。やはり、業平の日記は頼範に届けてもらいましょう」
「いえ、東三条院様、私は、越前にいたころは、馬を乗りまわすのが日課でした。五里ぐらい何でもありませんわ」
「しかし、殿方にお顔を見られるのは、おいやでしょう?」
「いえ、女房暮らしが長いですから、男の方とお話をするのは、慣れておりますわ」
「あら、そう。まあ、あなたが構わないなら」
「それでは、明日の支度もありますので、この辺で失礼いたします」
式部と侍女は恭しく挨拶をして部屋から出て行こうとした。
「それから」
詮子が呼び止めた。
「あなたの書いているものは、浮御堂に保管してもらっておいたら。一応、念のためですけどね」
これがねらいだったのだと式部は思った。式部はあらがわなかった。
「そうですね。そうしましょう。あのような書き損じが誰かの目に止まったら恥ずかしいですからね」
「すまないわね。本当に」
「いいえ、かえって、この方がよかったんですわ」
外へ出ると侍女が訊いた。
「よろしいんですか、奥様」
「大丈夫。あなたが付いているんですから」
侍女は越前から付いてきた武士の娘だった。馬の名手だった。