芥川

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 夏の風が琵琶湖の水の香りを送ってきた。前を行く頼範の馬は式部の馬との距離を空けもしなければ縮めもしなかった。頼範は一度も振り返らなかったが、心が式部たちにいつもあることがわかった。若いが馬の扱いに熟練していた。天性のものもあるのだろう。式部は漢文を読んだり馬に乗ったり、小さい頃から、男がするようなことを好んだ。愛する父から常にお前が男だったらと言われて育ったので、自然と政治や戦に関心を持った。頼範のような武人が好きだった。自分も武士に生まれればよかったと思った。源氏の勢いはますます盛んである。停滞した貴族社会に比べ、源氏の武家社会は、この日本を力強く牽引するたくましさが感じられる。頼範は身分こそ低いが、家系の実力は高く、財力も豊かである。頼範の武具や持ち物にそれが反映している。しかしそれに劣らず、式部の馬具も高級なものだった。式部の父が越前守に在任しているうちに、財力が非常に増した。式部の夫は現在山城守に在任しており、やはり財力がある。ここ数年、式部の身の回りはものであふれている。うれしくもあり、怖くもあった。式部ははたと思い付いた。これは道長にもたらされたものではないかと。式部の父は淡路守になる予定だった。ところが、当時越前に中国からの使者が訪れることになり、急遽漢文のできる式部の父に変更することになったのだ。式部も漢文ができるから、父に説得され、付いていくことになった。式部はもとより父と豊かな越前に一度行ってみたかったから、異論はなかった。越前は大国である。淡路守になるのと越前守になるのとでは、雲泥の差がある。越前守を急に降ろされた源国盛は、今でも父を非常に恨んでいる。豊かさの裏には、人の恨みが隠れている。慎まなければならない。式部は人前で決して得意がらなかった。得意になると、裏に隠れている人の恨みに足を捕まれて、あっと思う間に落ちぶれてしまうと思っていたからだ。
(そう言えば、あの時父を強く推挙したのは道長だったと、誰かが言っていた)
 式部の父は漢文ができるから、あの時は何も不思議に思わなかったが、今にして思うと、あれは道長が私の父に恩を売ったのではなかったか。私が道長の密かな愛人になるのは、あの時に決まっていたのだ。式部は急に今の自分の幸福がつまらないものに思えた。
「奥様、あちらが浮御堂でございます」
 頼範が馬を止め、背筋を伸ばして、説明した。顔が赤らんでいた。まぶしそうに自分を見る頼範に式部は好感を持った。
 琵琶湖の沖に小さな点があった。お堂などどこにも見えなかった。
「遠くてよくご覧になれないかもしれませんが、あそこに船が停泊しています。朝夕の勤行の際、僧侶たちが小舟で行きます。昔、漁師があそこで釣りをしていると、仏像が釣れたとのことでございます。漁師の舟に小さなお堂を造り、その中に仏像を安置したのが始まりだそうでございます」
「小さすぎて、ここからは見えないのね」
「いえ、その後建て替えまして、今の船はとても大きいです。お堂もずいぶん立派になりました。浜に寺ができまして、そこの所属になっておりますが、ご本尊はあのお堂にあります。寺の仏像は仮のものです。ですから、毎朝夕、僧侶たちはご本尊様をお参りに行くのです」
「その船が保管場所になっているのですか?」
「いえ、船の下に保管箱が沈んでいます」
「どこに保管箱があるのかわかるのですか?」
「はい、私ならわかります」
「どこかに書き留めておかなくてもいいのかしら?」
「限られた者の頭の中だけに秘めておくというきまりになっております」
「水に潜って保管しに行くの?」
「はい」
「私も行っていいかしら?」
 頼範は目を大きくした。
「しかし許可がありませんと……」
「東三条院様から得ています」
 はったりだった。
「失礼ながら奥様にはご無理かと……」
「泳ぎは得意よ。越前の海女仕込みよ」
 これは本当だった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日