芥川

芥川
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 夏の陽ざしを背景に、大男が汗を流して、困っていた。式部はおかしくて笑いたくなった。
「奥様がそうおっしゃるのでしたら、私に引き止めることはできませんが……」
「それでは、よろしくお願いいたします。船に乗るのかしら」
「はい。もう用意は調っております」
 街道の果てに小さなものが無数にうごめいていた。それはだんだん大きくなった。牛車や武士、僧侶が近づいて来るのだった。
 式部は馬から下り、単衣を頭巾のようにして、顔を覆った。都から離れたところでは珍しい、見事な牛車だった。
「頼範様、お疲れさまでございます」
 武士や僧侶はひれ伏して、頼範にねぎらいの言葉を述べた。
「こちらが山城守の奥方様だ。丁重に案内申せ」
「ハハー」
 式部は驚いた。頼範は源満仲の子である。満仲は清和源氏の棟梁で、現在大変威勢がよい。
「山城守の奥方様、このたびはこのようなむさ苦しいところへ、ようこそおいでくださいました。なにぶん田舎でございますので、何のおもてなしもかないませぬが、どうかごゆるりとおくつろぎくださいませ」
「急にお邪魔いたしまして、ご迷惑をお掛けいたします。明日には引き上げますので、少しの間ご厄介になります。どうぞ何もお構いなくお願い申し上げます」
 二人は牛車に乗った。侍女も一緒に乗った。馬は二人の供人が引いていった。
 寺に着くと、式部は御簾のある部屋に通された。先ほど挨拶した僧侶が御簾の前に座り、式部の好みを訊いた。式部はそれほど食欲がなかったので芋粥だけでいいと伝えさせた。
「かしこまりました。ご用意させていただきます」
「無礼のないようにしっかり取りはからえよ」
 頼範が叱りつけるように言った。式部の気持ちを害したら、後で東三条院から叱られると思うので、神経をとがらせていたのだ。それは無理もない。東三条院に自分の失態を知られたら、道長にも知られる。父の満仲にも知られる。頼範は満仲が一番恐かった。満仲が手を叩いただけでも、その意図を察し、迅速にかつ的確に行動できなければ、ひどく咎められるのであった。そうやって小さい子どものころからしつけられてきたのである。この寺の武士や僧侶がテキパキしているのも、同じ理由であった。
 しばらくすると、外が騒がしい。庭を駆け回り、金物が音を立てた。
「何の音でしょうか」
「さあ、何でございましょう?」
 侍女も不思議そうな顔をしていた。
 またしばらくすると、外でパチパチ音がして、ゴーゴー勢いよく燃やしているようだった。
「お風呂でも焚いているのかしら」
「田舎では大きな釜で湯を沸かして入るところもあるということを聞いたことがありますわ」
 侍女は汗を流せるかもしれないとうれしそうである。
 そのうちに何かを煮る匂いが漂ってきた。
「何の匂いかしら」
「何でしょうね?」
 女たちが大勢大きな鼎を持ってきた。近在の住民がかり出されたらしい。その中でも武士の家の妻や娘がこの部屋を担当することになったのだろう。どことなく品があり、着ているものなども粗末ではない。一番格式の高い家の妻とおぼしき女が、小さな器を折敷に載せて、恭しく差し出した。
「芋粥でございます。田舎のものですから、お口に合いますかどうか」
 式部と侍女は顔を見合わせた。
「芋粥を用意していたのね」
 口に手をやりくっくと笑う。
「お代わりはたくさんございますので、どうぞ十分にお召し上がりください」
 式部と侍女は口に入れた。上品な味わいで、しかも新鮮だった。
「おいしいわ。都のものよりずっと上等よ」
「ありがとうございます」
「私、こちらが気に入りましたわ」
 膳が次々に運ばれてきた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日