芥川

106
波は穏やかだった。四方を開け放してあるから、風が心地よい。仏間の裏に作業場があった。頼範の武骨な手が細やかな作業を器用にこなしている。
「二枚の紙に挟んで、柿渋で外側を塗り固めます。こうすると中に水は入ってきません」
大きめの紙の上に貫之の日記を置き、その上にまた大きい紙を載せると、頼範は刷毛ですばやく柿渋を塗っていく。
柿渋を塗ったものを、ざるの上に置き、風通しのよい場所に置くと、漆塗りの大きな盆に炭の破片を敷きつめる。
「炭は湿気を吸ってくれますので、この中は結露しないのです。このあとさらに小さな酒樽のようなものに入れて、湖底に持っていきます。柿渋が乾くまで、少々お待ちください。しかし奥様、本当に大丈夫ですか。私でも息が苦しくなって、それは大変なんですよ」
「大丈夫よ。それでは少し、練習をいたします」
そう言うと、式部は単衣や小袖を足元に落とし、湖の中に飛び込んだ。式部が水の下に行ったまま戻らないので、頼範は不安になった。急いで衣服を脱いで飛び込んだ。ちょうど式部が上に上がってくるところだった。頼範も方向転換し上に上がった。式部が水面から顔を出すと、頼範も顔を出した。
「奥様、泳ぎがお上手ですね」
「海女仕込みと言ったでしょ」
「お見それしました」
「あの日記を持っていく前に、下見をさせていただいてもいいかしら?」
「もちろんでございます。ですが、下見をするまでのことはございません。奥様ほど泳ぎがお上手でしたら、簡単に日記を持っていくことができます」
「本当?」
「はい。では、奥様、私のあとを付いていらしてください」
準備が整うと、頼範は水に潜った。式部も潜った。水がきれいだった。岩陰に魚が見える。頼範が近づくと魚は奥に隠れた。頼範も魚が隠れたところへ入っていった。頼範が見えなくなったので、式部は慌てて岩の中に入った。洞窟のようになっていた。魚はいない。頼範もいない。式部は上を見上げた。頼範が魚を追って上に上がっていくのが見えた。式部も上がっていった。暗くはなかった。上から光が当たっていた。すぐに水面に顔が出た。頼範が横にいた。魚はまた下に泳いでいった。
「ここは?」
「岬の中です」
「岬?」
「はい。琵琶湖に突きだしている岬の中が空洞になっていまして、その中へ、湖底の入口から入ることができるのです」
頼範は平らな岩の上に乗り、体に結びつけてきた濡れないように工夫した袋から布を取り出して体を拭き、衣服を取り出して着た。式部が近づくと、後ろを向き、着替えるのを待った。
「かなり広いわね。それに明るい」
「はい。上の方が開いているのです」
「それなら、何も湖に潜らなくても、陸からそこまで登ればいいじゃないの」
「ところが、この岬は切り立った山になっておりまして、そこまで行くのは難しいのです。湖底から入り込む方が断然に楽なのでございます」
式部は上を見上げて、見回した。足場が組んであり、いくつもの部屋がある。
「岬の中はまるで要塞のようになっているのね。驚いたわ」
「我ら源氏の者たちが敵に追いつめられた時の根城になっておりますが、普段は誰もおりません」
「でも、どうやって上まで行くの?」
「あちらをご覧ください」
頼範が指したのは滝だった。
「滝……。川が流れているのね」
頼範は滝の後ろに回った。式部も付いていった。
「ここにまた洞窟の入口がございます。ここから上に登ることができます」
式部はひんやりとした空気の流れを感じた。
「行ってみましょう」
「では、こちらへどうぞ」
「二枚の紙に挟んで、柿渋で外側を塗り固めます。こうすると中に水は入ってきません」
大きめの紙の上に貫之の日記を置き、その上にまた大きい紙を載せると、頼範は刷毛ですばやく柿渋を塗っていく。
柿渋を塗ったものを、ざるの上に置き、風通しのよい場所に置くと、漆塗りの大きな盆に炭の破片を敷きつめる。
「炭は湿気を吸ってくれますので、この中は結露しないのです。このあとさらに小さな酒樽のようなものに入れて、湖底に持っていきます。柿渋が乾くまで、少々お待ちください。しかし奥様、本当に大丈夫ですか。私でも息が苦しくなって、それは大変なんですよ」
「大丈夫よ。それでは少し、練習をいたします」
そう言うと、式部は単衣や小袖を足元に落とし、湖の中に飛び込んだ。式部が水の下に行ったまま戻らないので、頼範は不安になった。急いで衣服を脱いで飛び込んだ。ちょうど式部が上に上がってくるところだった。頼範も方向転換し上に上がった。式部が水面から顔を出すと、頼範も顔を出した。
「奥様、泳ぎがお上手ですね」
「海女仕込みと言ったでしょ」
「お見それしました」
「あの日記を持っていく前に、下見をさせていただいてもいいかしら?」
「もちろんでございます。ですが、下見をするまでのことはございません。奥様ほど泳ぎがお上手でしたら、簡単に日記を持っていくことができます」
「本当?」
「はい。では、奥様、私のあとを付いていらしてください」
準備が整うと、頼範は水に潜った。式部も潜った。水がきれいだった。岩陰に魚が見える。頼範が近づくと魚は奥に隠れた。頼範も魚が隠れたところへ入っていった。頼範が見えなくなったので、式部は慌てて岩の中に入った。洞窟のようになっていた。魚はいない。頼範もいない。式部は上を見上げた。頼範が魚を追って上に上がっていくのが見えた。式部も上がっていった。暗くはなかった。上から光が当たっていた。すぐに水面に顔が出た。頼範が横にいた。魚はまた下に泳いでいった。
「ここは?」
「岬の中です」
「岬?」
「はい。琵琶湖に突きだしている岬の中が空洞になっていまして、その中へ、湖底の入口から入ることができるのです」
頼範は平らな岩の上に乗り、体に結びつけてきた濡れないように工夫した袋から布を取り出して体を拭き、衣服を取り出して着た。式部が近づくと、後ろを向き、着替えるのを待った。
「かなり広いわね。それに明るい」
「はい。上の方が開いているのです」
「それなら、何も湖に潜らなくても、陸からそこまで登ればいいじゃないの」
「ところが、この岬は切り立った山になっておりまして、そこまで行くのは難しいのです。湖底から入り込む方が断然に楽なのでございます」
式部は上を見上げて、見回した。足場が組んであり、いくつもの部屋がある。
「岬の中はまるで要塞のようになっているのね。驚いたわ」
「我ら源氏の者たちが敵に追いつめられた時の根城になっておりますが、普段は誰もおりません」
「でも、どうやって上まで行くの?」
「あちらをご覧ください」
頼範が指したのは滝だった。
「滝……。川が流れているのね」
頼範は滝の後ろに回った。式部も付いていった。
「ここにまた洞窟の入口がございます。ここから上に登ることができます」
式部はひんやりとした空気の流れを感じた。
「行ってみましょう」
「では、こちらへどうぞ」