芥川

芥川
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 滝の水が冷たかった。深いところを流れているのだ。しかし水量は思ったほどではなかった。体に軽く水がかぶっただけで、もう裏側だった。
「洞窟なんかないわ」
「お待ちください」
 頼範は濡れた岩肌を両手で動かした。簡単に外れた。木に岩を貼り付けてあった。そういうものを次々に外すと、人がすり抜けられる縦穴が出てきた。頼範は中に入った。
「奥様、こちらへお入りください」
「わかったわ」
 式部が中に入ると、頼範は松明に火を付けて、岩肌を元に戻した。暗くなったが、どこからか明かりが来ていた。式部は頼範の後を付いていった。頼範が暗がりに消えていく。道が折れていた。つづら折りになって、だんだん上に上がっていくのだった。木の段や手すりなどもあり、予想外に清潔な空間であった。松明がなくても十分に行動できる場所まで来た。
「ここは岬の頂上付近です。その穴から湖が見えますよ」
 穴はいくつもあったが、一番足場のよいところから覗くと、琵琶湖の向こうに美しい山並みが見えた。
「何てきれいな景色なんでしょう!」
 頼範は岩肌を両手で動かしていた。木に岩を貼り付けたものがどんどん取れていく。
「奥様!」
 景色に夢中になっていた式部は、慌てて頼範の入った岩の壁の中に入っていった。頼範は岩壁を元に戻した。
 やはり小さな穴がいくつか開いていて、部屋の中は明るかった。棚がたくさん並び、そこにおびただしい数の書類が整然と保管されていた。
「すごいわ! これが藤原北家の機密文書なのね」
「はい。清和源氏のものもあります」
 頼範は樽から出した貫之の日記を棚に並べながら言った。
「つまり、日本の秘密がここにすべてあるというわけね」
「いえ、ここにあるものはその一部です。石清水八幡宮と糺の森にあるものが、大本です。石清水八幡宮は清和源氏、糺の森は藤原北家です。浮御堂にあるものは、藤原北家、清和源氏と関係の深い他氏の文書を扱っております。特に紀氏と在原氏のものが多いです。お読みになりますか?」
「ええ」
「奥様がお読みになりたいものは、どれでもお読みになって結構でございます。寺の住職からも許可を得てあります。一応東三条院様にも使者をやりまして、先ほど報告を聞いたのですが、奥様が滞在なさりたいだけ滞在して、ここにある文献をお読みになっていただくように取り計らいなさいという指示を受けました。ですから、奥様は、何も遠慮なさることなく、時間を気になさることもなく、自由にここで閲覧なさってください。まもなく、集落から食事や身の回りのお世話をいたします女たちが参ります。私もご用がございましたら、いつでもこの岬にやって参りますから、ご安心ください。それでは私はこれで失礼いたします」
 式部は頼範の顔を見た。頼範は名残惜しそうであった。
「あなた、お腹は空いていないの?」
「私なら大丈夫でございます」
 お腹が空いているようだった。
「食事の用意をしに来てくれるのなら、あなたも召し上がってから、戻ればいいわ。そうなさいませんこと?」
「いや、しかし、奥様と食事をなさるわけには参りません」
「だって、部屋はたくさんあるのでしょ?」
「はい。それは、まあ」
「だったら、食事をなさってからお帰りになった方がいいわ。お腹が空いていると泳ぐのも大変よ」
「いえ、しかし」
 外から女の声がした。
「奥様、お食事のご用意ができました」
「こちらへ持ってきてちょうだい。頼範様にもお出しして」
「かしこまりました」
 ご飯や煮物が並べられた。
「今、魚を焼いております」
 よい匂いに、式部と頼範の腹が鳴った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日