芥川

108
岬の中は快適だった。風が通り光がちょうどよかった。この岬が本当の浮御堂なのだと頼範が教えてくれた。岬には実際、お堂があった。これが本尊である。船にあるのは、仮のもの。寺にあるのは仮の仮のもの。こうして外部からの侵入を最大限に防いでいるのである。
式部は食事後、貫之の覚え書きを読んでいた。東三条院のところで貫之の日記を読んでいた時に、覚え書きの存在を知り、それが読みたいと思っていたが、それが岬の浮御堂にあった。貫之の日記は古今集、伊勢物語、土佐日記の書かれた経緯が、年月日に従って記されていたが、この覚え書きには、貫之が強く感じたことが、順序も無関係に雑然と書き留められていた。これは本当に貫之の個人的な覚え書きなのであろう。
良房の日記を道真に引き渡さなければならない時のことが、式部の目に止まった。道真と宇多法皇の軍勢が貫之と高子の軍勢と対峙していた。式部が習った歴史にはこのような事実は何も記されていなかったが、この時、都で大きな戦乱があってもおかしくなかったのだ。高子には東国の武士団が控えていたから、もし戦乱になっていたら、日本は今とは違うものになっていただろう。しかし戦乱は回避された。貫之は良房の日記を渡す約束をした日、渡す場所として指定した石清水八幡宮から、渡す相手として指定した伊勢を連れて、宇治川に逃れ、そのまま遡って瀬田川を一気に進み、琵琶湖に入った。そこには清和源氏の武士たちが待機していた。彼らは貫之を清和源氏の隠れ家である浮御堂に連れていった。
「浮御堂!」
式部は本当に心の底から驚いた。大きな声を出し、体ががくがく震えた。
「そうです。貫之はここに来たのです。すべてを封印するために、ここに来たのです。藤原北家と清和源氏の中枢部に関係し、進退窮まった人々は、皆ここに来たのです」
式部は厚い胸板の上の焼けた頼範の顔を見つめた。
「私も、道長様のことを書こうとしたから、ここへ連れてこられたのね」
式部の目は頼範の目に止まったままだった。頼範の目も式部の目に止まったままだった。そして時間が流れた。鳥が鳴いていた。蝉が鳴いていた。波の音がたぷたぷ聞こえた。
「違うとは申し上げかねます」
式部の目から涙がぽろぽろこぼれた。式部はそれを放っておいた。
「私はもうここから出られないのね」
「いいえ、そんなことはございません」
「貫之もずっとここにいたのでしょう? 土佐守になったのは、だいぶ高齢だったようだから」
頼範は横を向いて、岩の上に座った。式部は両手でその肩をつかんで、揺するようにした。
「ねえ、あなたが知っていることを私に全部話して。私は何を聞いても、逆らったりしないから」
頼範は下を向いて、じっと黙っていた。
式部も頼範の隣に座り、黙った。
そのまま時は過ぎた。
式部は頼範がかわいそうになった。頼範は上の者にきつく言われ、役目を務めているだけなのだ。そして上の者は一人ではない。藤原北家と清和源氏の中枢部は固く守られているのだ。そこには頼範もきっと入れないだろう。式部も藤原北家であったが、無論そんなところに出入りできる立場ではない。
「ごめんなさい。私、無理を言ったわ」
式部が文机に戻ろうとすると、頼範が式部の方を見た。
「私の知っていますことは、非常に限られておりますが、私のお話しできる限りのことは、お話しいたしましょう」
式部は微笑んだ。
「いいのよ、もう。あなたを困らせたくないから、もう訊かないわ」
「いえ、私がお咎めを受けるようなことをお話申すというわけではなく、奥様のお気持ちを少しでも軽くしてさしあげたいと思っておるのです」
「いいわ、好きにしてちょうだい」
「奥様は選ばれたお方なのです」
式部は頼範の前に座り直した。
式部は食事後、貫之の覚え書きを読んでいた。東三条院のところで貫之の日記を読んでいた時に、覚え書きの存在を知り、それが読みたいと思っていたが、それが岬の浮御堂にあった。貫之の日記は古今集、伊勢物語、土佐日記の書かれた経緯が、年月日に従って記されていたが、この覚え書きには、貫之が強く感じたことが、順序も無関係に雑然と書き留められていた。これは本当に貫之の個人的な覚え書きなのであろう。
良房の日記を道真に引き渡さなければならない時のことが、式部の目に止まった。道真と宇多法皇の軍勢が貫之と高子の軍勢と対峙していた。式部が習った歴史にはこのような事実は何も記されていなかったが、この時、都で大きな戦乱があってもおかしくなかったのだ。高子には東国の武士団が控えていたから、もし戦乱になっていたら、日本は今とは違うものになっていただろう。しかし戦乱は回避された。貫之は良房の日記を渡す約束をした日、渡す場所として指定した石清水八幡宮から、渡す相手として指定した伊勢を連れて、宇治川に逃れ、そのまま遡って瀬田川を一気に進み、琵琶湖に入った。そこには清和源氏の武士たちが待機していた。彼らは貫之を清和源氏の隠れ家である浮御堂に連れていった。
「浮御堂!」
式部は本当に心の底から驚いた。大きな声を出し、体ががくがく震えた。
「そうです。貫之はここに来たのです。すべてを封印するために、ここに来たのです。藤原北家と清和源氏の中枢部に関係し、進退窮まった人々は、皆ここに来たのです」
式部は厚い胸板の上の焼けた頼範の顔を見つめた。
「私も、道長様のことを書こうとしたから、ここへ連れてこられたのね」
式部の目は頼範の目に止まったままだった。頼範の目も式部の目に止まったままだった。そして時間が流れた。鳥が鳴いていた。蝉が鳴いていた。波の音がたぷたぷ聞こえた。
「違うとは申し上げかねます」
式部の目から涙がぽろぽろこぼれた。式部はそれを放っておいた。
「私はもうここから出られないのね」
「いいえ、そんなことはございません」
「貫之もずっとここにいたのでしょう? 土佐守になったのは、だいぶ高齢だったようだから」
頼範は横を向いて、岩の上に座った。式部は両手でその肩をつかんで、揺するようにした。
「ねえ、あなたが知っていることを私に全部話して。私は何を聞いても、逆らったりしないから」
頼範は下を向いて、じっと黙っていた。
式部も頼範の隣に座り、黙った。
そのまま時は過ぎた。
式部は頼範がかわいそうになった。頼範は上の者にきつく言われ、役目を務めているだけなのだ。そして上の者は一人ではない。藤原北家と清和源氏の中枢部は固く守られているのだ。そこには頼範もきっと入れないだろう。式部も藤原北家であったが、無論そんなところに出入りできる立場ではない。
「ごめんなさい。私、無理を言ったわ」
式部が文机に戻ろうとすると、頼範が式部の方を見た。
「私の知っていますことは、非常に限られておりますが、私のお話しできる限りのことは、お話しいたしましょう」
式部は微笑んだ。
「いいのよ、もう。あなたを困らせたくないから、もう訊かないわ」
「いえ、私がお咎めを受けるようなことをお話申すというわけではなく、奥様のお気持ちを少しでも軽くしてさしあげたいと思っておるのです」
「いいわ、好きにしてちょうだい」
「奥様は選ばれたお方なのです」
式部は頼範の前に座り直した。