芥川

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 波の音がたぷたぷ聞こえた。
「それはどういうことなのかしら?」
 式部は東三条院が秘密を話すと言っていたことを思い出した。しかし貫之の日記を読みふけり、だいぶ遅くなったため、辞去し、その後、頼範とここへ来たから、結局東三条院から聞くことはできなかった。頼範の話はそれと関係があるのだろうか?
「奥様は、まれに見る文章の達人です。貫之も達人でした。貫之は藤原北家の歴史をここで書いておりました。しかし貫之没後はそれを引き継ぐ人物がおりません。藤原北家の歴史は清和源氏の歴史でもあります。我ら源氏は表には出ませんが、藤原北家の歴史を読めば、我々の仕事もわかるのです。少なくとも我々にはわかるように書かれているのです。この歴史を書く人は、摂関家から距離があり、またこのような歴史を書くとは到底考えられない傾向の文人であるのがよいとされています。貫之は世間では『古今和歌集』や『土佐日記』を生み出した人物と見られておりますから、藤原北家の歴史の影の作者であるとは誰も思いません。奥様も恋物語を作るのが大変お得意と伺っております。またこれから新しい恋物語をお作りになるとも伺っております。ですから、奥様が藤原北家の歴史をお書きになれば、きっと誰からもその作者であるとは思われないでしょう」
「でも、私にはとても無理だわ」
「しかし、お書きにならないわけには参らないのでございます」
「書かなかったらどうなるの?」
 頼範は黙った。
「いいわ、殺してください。そうすれば、あなたのお役目も終わり、また普通の暮らしに戻れるわ」
 式部はまっすぐ頼範を見た。頼範も式部をじっと見ていた。
 式部に後悔の念はなかった。三十年生きれば十分である。寿命は短い。このあと生きても、せいぜい十年か二十年だ。父は東三条院と道長の策略のあおりで、日の目を見ることができなかった。父は私を主上に仕えさせたいと思っていた。私も皇后を夢見たことがある。父と同じ境遇の者なら誰でも同じことを望む。私と同じ境遇の女なら誰でも同じことを望む。しかしそんなことはもうどうでもよい。書くことももうどうでもよい。先ほど道長のことを書いた物語を紀氏と在原氏の棚の横に置いてきた。同じ藤原北家でも私の書いたものは糺の森には置いてもらえないのである。藤原北家と関係のある他氏と同列の扱いを受けるのである。物語を置いた時、自分の遺骸を安置してきたような気持ちになった。私は死んだのである。自分の思念に沈んでいたら、いつの間にか頼範がしゃべっていた。
「……私はそう思います」
「ごめんなさい。今、ちょっとぼんやりしていたものだから、もう一度話してもらえるかしら?」
 頼範は感情を害した様子でもなく、話を繰り返した。
「奥様、これは私の気持ちです。私は道長様と奥様の話をつい拝見してしまいました。読むつもりではなかったのですが、何かの拍子で開いたところを読んでいるうちに、気が付いたら最後まで読んでしまったのです。こんなことを申しては大変失礼でございますが、読み物として考えますと、とても面白いものでございます。私は貫之が書いた藤原北家の歴史を読みましたが、これは非常に面白い読み物になっております。なかなかこれを書き継ぐことのできる文章力を持った者はおりません。しかし奥様の文章を読んだ時、私は確信いたしました。貫之の後を引き継ぐことができるのは、奥様しかいないと」
「でも、もう、どうでもいいのよ。私はあの物語を先ほどしまったときに、すべてが終わったという気がしたの」
 頼範はいざり寄った。
「奥様、終わっておりません。これから始まるのです。貫之の続きをお書きください。そうすれば、奥様はまた京の自邸にお戻りになれます」
「本当に、もう、いいのよ」
「それは、奥様が貫之の書いた歴史を読んでいないからです。あれを読むと続きを書きたくなります」
 式部の耳に波の音が心地よかった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日