芥川

110
式部と頼範は波のように同じやりとりを何度も繰り返した。それがなぜか式部には心地よかった。式部は読むだけなら読んでみてもよいという気持ちになった。
「ねえ、頼範様、あなたがそれほど言うのなら、読むだけ読もうかしら?」
「本当ですか!」
「ええ、その代わり、読み終わるまで、あなた、ここにいてくださる?」
頼範は困った。
「いえ、それはちと」
「では、読むことはできないと思いますわ。あなたがいるとなぜか私の気持ちが落ち着くのよ。あなたがここにいなければ、とても読めるような気持ちでいられないと思うわ」
「お読み終わりになるまでこちらにいても構わないか、確認して参ります」
頼範は去っていった。
式部は娘のこと、夫のこと、道長のこと、頼範のことを考え、なかなか寝付けなかった。
波の音で目覚めると、もう頼範が来ていた。寝室から出て、御座所のようにしつらえている部屋で待っていると、頼範が来て、平身低頭で昨日の回答をした。
「許可が出ました」
「ありがとう」
頼範はもう控えの間に去った。
式部は侍女に命じ、頼範に必要な文書を持って、説明しに来るよう伝えさせた。
頼範はまもなく貫之の書いた歴史や関連資料をたくさん持ってきた。
「貫之は良房の日記を読み、業平の日記を読み、二条の后(高子)の話を聞き、滋幹の母(業平の孫娘)の話を聞きました。そして、時平と道真の争いを直接見、道真の非業の死と道真の祟りによる時平の死を人から知らされ、忠平が権力を手に入れた直後に、京に呼び戻され、この歴史書の提出を求められました。貫之は藤原摂関政治の裏表をすべて知り、摂関家を守護する源氏の台頭を見てきました。貫之は才人でした。歌の道は実名で公表しました。藤原北家の裏をぼかして書いた伊勢物語は、業平や伊勢が書いたように思わせました。摂関家の舞台裏を詳細に書いたこの歴史物語は、誰の作であるかがわからないようにしました。貫之がそのように書き分けたのです。いや、摂関家にそのようにさせられたのです。具体的に言いますと、二条の后と忠平が貫之の書いたものを読んで、修正させたのです。貫之が書いたもので公表できなかったものもたくさんあります」
「良房の日記と業平の日記の内容ね」
「そうです。もちろんこの二つの日記は、貫之の書いたものに、形を変えて出てきています。しかしそれは、世に出てもそれほど差し支えないところだけです」
「貫之の書いた歴史物語も貫之の書いた秘密の歴史もすべて読んでみたいわ」
「どうぞ、何なりとお読みください」
式部は片端から読んでいった。頼範は控えの間で待機していた。式部は訊きたいことがあるとすぐに侍女に頼範を呼びに行かせた。頼範は説明を終えるとすぐに控えの間に戻った。ある日暮れ時に、頼範は寺に戻った。式部は気晴らしに泳ぎに行くと侍女に伝え、頼範を追いかけた。岩陰から船の浮御堂に上がっていく頼範の両足を下から両腕で抱えると、驚いて頼範は後ろを振り向いた。式部が笑うと頼範も笑った。
「何をなさるのですか」
水面から顔を出した頼範が、式部の白い肌を見て、顔をそらした。
「船の方の浮御堂も浮御堂でしょ?」
「はい、そうですが」
「だったら、私は船の浮御堂にいても構わないのでしょ?」
「いえ、別に浮御堂でなくても、寺にだっていらしても構わないのですよ」
「え? そうなの。私はまた、岬の浮御堂から出てはならないのだと思っていたわ」
「申し訳ございませんでした。私の説明不足でした。もともと寺に滞在していただく予定だったのですが、奥様が泳ぎがお得意で、岬までいらっしゃったので、そちらに御座所をしつらえさせてしまいました。幸いこの土地の者は皆泳ぎができることもありましたので」
「じゃあ、船で少しくつろぐわ」
式部は白い体を船に上げた。
「ねえ、頼範様、あなたがそれほど言うのなら、読むだけ読もうかしら?」
「本当ですか!」
「ええ、その代わり、読み終わるまで、あなた、ここにいてくださる?」
頼範は困った。
「いえ、それはちと」
「では、読むことはできないと思いますわ。あなたがいるとなぜか私の気持ちが落ち着くのよ。あなたがここにいなければ、とても読めるような気持ちでいられないと思うわ」
「お読み終わりになるまでこちらにいても構わないか、確認して参ります」
頼範は去っていった。
式部は娘のこと、夫のこと、道長のこと、頼範のことを考え、なかなか寝付けなかった。
波の音で目覚めると、もう頼範が来ていた。寝室から出て、御座所のようにしつらえている部屋で待っていると、頼範が来て、平身低頭で昨日の回答をした。
「許可が出ました」
「ありがとう」
頼範はもう控えの間に去った。
式部は侍女に命じ、頼範に必要な文書を持って、説明しに来るよう伝えさせた。
頼範はまもなく貫之の書いた歴史や関連資料をたくさん持ってきた。
「貫之は良房の日記を読み、業平の日記を読み、二条の后(高子)の話を聞き、滋幹の母(業平の孫娘)の話を聞きました。そして、時平と道真の争いを直接見、道真の非業の死と道真の祟りによる時平の死を人から知らされ、忠平が権力を手に入れた直後に、京に呼び戻され、この歴史書の提出を求められました。貫之は藤原摂関政治の裏表をすべて知り、摂関家を守護する源氏の台頭を見てきました。貫之は才人でした。歌の道は実名で公表しました。藤原北家の裏をぼかして書いた伊勢物語は、業平や伊勢が書いたように思わせました。摂関家の舞台裏を詳細に書いたこの歴史物語は、誰の作であるかがわからないようにしました。貫之がそのように書き分けたのです。いや、摂関家にそのようにさせられたのです。具体的に言いますと、二条の后と忠平が貫之の書いたものを読んで、修正させたのです。貫之が書いたもので公表できなかったものもたくさんあります」
「良房の日記と業平の日記の内容ね」
「そうです。もちろんこの二つの日記は、貫之の書いたものに、形を変えて出てきています。しかしそれは、世に出てもそれほど差し支えないところだけです」
「貫之の書いた歴史物語も貫之の書いた秘密の歴史もすべて読んでみたいわ」
「どうぞ、何なりとお読みください」
式部は片端から読んでいった。頼範は控えの間で待機していた。式部は訊きたいことがあるとすぐに侍女に頼範を呼びに行かせた。頼範は説明を終えるとすぐに控えの間に戻った。ある日暮れ時に、頼範は寺に戻った。式部は気晴らしに泳ぎに行くと侍女に伝え、頼範を追いかけた。岩陰から船の浮御堂に上がっていく頼範の両足を下から両腕で抱えると、驚いて頼範は後ろを振り向いた。式部が笑うと頼範も笑った。
「何をなさるのですか」
水面から顔を出した頼範が、式部の白い肌を見て、顔をそらした。
「船の方の浮御堂も浮御堂でしょ?」
「はい、そうですが」
「だったら、私は船の浮御堂にいても構わないのでしょ?」
「いえ、別に浮御堂でなくても、寺にだっていらしても構わないのですよ」
「え? そうなの。私はまた、岬の浮御堂から出てはならないのだと思っていたわ」
「申し訳ございませんでした。私の説明不足でした。もともと寺に滞在していただく予定だったのですが、奥様が泳ぎがお得意で、岬までいらっしゃったので、そちらに御座所をしつらえさせてしまいました。幸いこの土地の者は皆泳ぎができることもありましたので」
「じゃあ、船で少しくつろぐわ」
式部は白い体を船に上げた。