芥川

111
船は夕日を浴びていた。波が船体を揺らすたびに二人の体も揺れた。二人の体は夕日を浴びて赤く染まっていた。式部はこうして頼範といつまでも波に揺られていたいと思った。
「奥様、申し訳ございませんでした。私が身の程もわきまえず、このようなことになってしまいまして」
式部が衣服に身を包んでいると、頼範は平身低頭で何度も何度も侘びた。式部は膝に頼範の顔を乗せて、小さな男の子を慰めるように、頭を撫で、言い聞かせるように話した。
「頼範様、いいのよ。私も悪かったわ。このことは絶対に誰にも秘密よ。私はあなたと一緒にいると落ち着くの。私は死のうと思っていたのよ。でも、あなたがいるから、生きてみてもいいかもと思い始めているわ」
「奥様、そんな、死ぬなんて、おっしゃらないでください。奥様が死んだら、私も死にます」
「うれしいわ。あなたの気持ち。私はあなたに死んでほしくないから、生きて行くことにするわ。その代わりこのことは絶対に秘密よ。どんなことがあっても」
「もちろんです」
「京都に戻ったら、あなたに会えなくなるでしょう。でも、私は、あなたと会いたいわ」
「私もです」
式部は頼範の頭を両腕で抱いた。
「京に戻っても、私のために浮御堂の資料を届けてくれる?」
「そんなことはお安いご用です」
頼範の耳が動いた。機敏に立ち上がった。海の方を向いて、遠くを見ている。
「寺から船がやって参ります」
式部も慌てて立ち上がり、海を見た。式部には何も見えなかった。しかし頼範の言うのは事実であると思い、衣服や髪を整えた。
やがて、三艘の船が泊まった。
僧侶や武士に守られて、船の浮御堂に現れたのは、道長だった。
堂の外に頼範がかしこまって座り、道長に気付いて深々と頭を下げた。
「頼範殿、いろいろと世話になるな」
「お役には立ちませぬが、精一杯務めております」
「いや、立派になった。父上殿の風格が備わってきておるぞ」
「かたじけないお言葉をありがとうございます」
「山城守の奥方はこちらにはいらっしゃらないのか」
「現在勤行をなさっておられます」
「そうか、それは間が悪かったな」
「中に参り、声をかけ申し上げいたしましょう」
「いや、それも何か申し訳ないような気がいたすな」
道長は式部の顔を早く見たかった。頼範はさっと堂の中に入った。道長はうれしくなった。すぐに式部が出てきた。
「奥様、いかがですか。このような場所ですから、何かとご不便でございましょう」
式部は深々と頭を下げ、恭しく話し始めた。
「いえ、水のほとりは涼やかで、土地の方々も気持ちがよく、大変快適に修行いたしております。これも道長様、東三条院様のお取りはからいのお陰でございます。誠にありがとう存じます」
「奥様は、船の浮御堂で修行なさっていらしたのですね。岬の浮御堂でも修行なさっているということを承りましたが」
「はい、泳ぎができますので、岬の浮御堂にも参りましたが、船の浮御堂が格別でございます」
「そうでございましょう。私もこの船の浮御堂が大変好きで、もう何度も修行いたしました」
「本当に私もここがとても好きでございます」
「しかし、ここではお休みになるには少し窮屈でございましょうから、お寺にお戻りになりませんか」
「はい、御意のままに」
道長はうれしくなった。やっと式部に会えた。しかも寺に戻ることに簡単に同意してくれた。この後のことしかなかったので、頼範のことなど頭の片隅にもなかった。
「奥様、申し訳ございませんでした。私が身の程もわきまえず、このようなことになってしまいまして」
式部が衣服に身を包んでいると、頼範は平身低頭で何度も何度も侘びた。式部は膝に頼範の顔を乗せて、小さな男の子を慰めるように、頭を撫で、言い聞かせるように話した。
「頼範様、いいのよ。私も悪かったわ。このことは絶対に誰にも秘密よ。私はあなたと一緒にいると落ち着くの。私は死のうと思っていたのよ。でも、あなたがいるから、生きてみてもいいかもと思い始めているわ」
「奥様、そんな、死ぬなんて、おっしゃらないでください。奥様が死んだら、私も死にます」
「うれしいわ。あなたの気持ち。私はあなたに死んでほしくないから、生きて行くことにするわ。その代わりこのことは絶対に秘密よ。どんなことがあっても」
「もちろんです」
「京都に戻ったら、あなたに会えなくなるでしょう。でも、私は、あなたと会いたいわ」
「私もです」
式部は頼範の頭を両腕で抱いた。
「京に戻っても、私のために浮御堂の資料を届けてくれる?」
「そんなことはお安いご用です」
頼範の耳が動いた。機敏に立ち上がった。海の方を向いて、遠くを見ている。
「寺から船がやって参ります」
式部も慌てて立ち上がり、海を見た。式部には何も見えなかった。しかし頼範の言うのは事実であると思い、衣服や髪を整えた。
やがて、三艘の船が泊まった。
僧侶や武士に守られて、船の浮御堂に現れたのは、道長だった。
堂の外に頼範がかしこまって座り、道長に気付いて深々と頭を下げた。
「頼範殿、いろいろと世話になるな」
「お役には立ちませぬが、精一杯務めております」
「いや、立派になった。父上殿の風格が備わってきておるぞ」
「かたじけないお言葉をありがとうございます」
「山城守の奥方はこちらにはいらっしゃらないのか」
「現在勤行をなさっておられます」
「そうか、それは間が悪かったな」
「中に参り、声をかけ申し上げいたしましょう」
「いや、それも何か申し訳ないような気がいたすな」
道長は式部の顔を早く見たかった。頼範はさっと堂の中に入った。道長はうれしくなった。すぐに式部が出てきた。
「奥様、いかがですか。このような場所ですから、何かとご不便でございましょう」
式部は深々と頭を下げ、恭しく話し始めた。
「いえ、水のほとりは涼やかで、土地の方々も気持ちがよく、大変快適に修行いたしております。これも道長様、東三条院様のお取りはからいのお陰でございます。誠にありがとう存じます」
「奥様は、船の浮御堂で修行なさっていらしたのですね。岬の浮御堂でも修行なさっているということを承りましたが」
「はい、泳ぎができますので、岬の浮御堂にも参りましたが、船の浮御堂が格別でございます」
「そうでございましょう。私もこの船の浮御堂が大変好きで、もう何度も修行いたしました」
「本当に私もここがとても好きでございます」
「しかし、ここではお休みになるには少し窮屈でございましょうから、お寺にお戻りになりませんか」
「はい、御意のままに」
道長はうれしくなった。やっと式部に会えた。しかも寺に戻ることに簡単に同意してくれた。この後のことしかなかったので、頼範のことなど頭の片隅にもなかった。