芥川

芥川
prev

112

 湖水は黒々としている。漁り火が見える。家々の火も見える。浜でいくつもの火が揺らめいていた。近づくと人々が松明を手にしているのだった。船が浜に着くと、人々が駆け寄った。
「お疲れさまでございます」
 僧侶や武士たちが道長や式部をいたわり、輿に載せた。
 寺に着くと、部屋に膳が運ばれた。道長が、式部にどれほど会いたかったかと、言葉を尽くした。式部は道長を恨んでいたが、こうして再び会って、優しい言葉をかけられるうちに、気持ちがほぐれていくような気がした。しかし、今の式部にはまだ頼範への思いが勝っていた。
「明日、京に戻りませんか」
 式部は耳を疑った。浮御堂から出られるのは、当分先になると思っていたからだ。歴史はまだこれから書くのである。
「私は、帰ってもよろしいのですか?」
 道長は式部の質問の意味がわからなかった。
「なぜ、そのように思われるのですか?」
「東三条院様がお許しにならないのかと思いまして」
「ああ、私の物語をお書きになったとかということをおっしゃっているのですね」
 差し向かいで、口に出して言われると、きまりが悪かった。式部は赤くなった。
「私も読ませていただきました」
「えっ?」
 式部はさすがに驚いた。
「頼範に持って来させたのです」
 式部は唖然とした。
「頼範は私がこういうために使っている男ですから」
「でも、岬の浮御堂の書庫に収蔵したのは、確かです」
「頼範は機敏な武士ですからね。馬で私のところを往復するのなど、何でもないことです」
 式部はうつむいた。
「恥ずかしいです」
「私はうれしかったです」
「夫に知られたら、どうすればよいでしょうか?」
 式部は両手で顔を覆った。
「ご安心ください。姉と私しか読んでおりません。頼範は抜け目のない奴ですから、もしかしたら読んでいるかも知れませんが、大丈夫です。あいつはあなたの味方です。私は、偽りは申しませんよ。私は、あなたのことを、他の誰よりも愛しております。私は立場上、これからいろいろと煩わしいことがあると思いますが、しかし、終生、あなたのことを一番大切な人として、お世話させていただきます」
 こう言われると、式部はやはりうれしかった。将来の生活への不安も消えていくような気がした。
「ありがとうございます。私のようないたらない女にそのような言葉をかけていただき、身に余る光栄でございます。私もできる限りで、道長様のお役に立てるように務める所存でございます」
「これはもったいないお言葉を頂戴いたしまして、私はこれに勝る喜びはございません。姉からも聞いていらっしゃるのではないかと思いますが、私の一家の歴史について、あなたとはわからない形でお書きになってください。それと同時に私の物語を直接私の名前は出さないでいただきたいのですが、それとわかるような形でお書きください。姉から聞きましたが、何でも『源氏物語』という題だと……」
「よろしいのですか。あなた様のお名前に傷が付いてしまいますわよ」
「何、そのぐらいの傷があった方が、かえってよいのです。完璧に立派な人間というものは危ないです。菅原道真をご覧なさい。立派な人間で、理想的な政治をなさろうとしました。結果はどうです。ねたまれ、現実にそぐわない政策に反感を持たれ、あっという間に没落してしまいました。私の悪いところを是非書いてください。世間の人はそれを読んで喜びます。すると、不思議なことに、私に対する反感はある程度解消されてしまうのです。これは政治家には実際必要なことなのです」
 何て考えが深いのかと式部は思った。父の兼家を凌ぐ大器かもしれない。
 式部は道長の差し出した手を握った。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日