芥川

113
冷たい空気の中に桜が開きはじめた。長保三年の春は疫病が流行っていた。あちらでもこちらでも咳やくしゃみの音が聞こえた。こじらせると肺をやられて、そのまま死んでしまう人も少なくなかった。桜が咲きはじめたころに、宣孝の邸では、常陸が咳をし始めた。
石山寺の僧都が訪れていた。兵部卿の宮の親戚で、たまたま宮を訪問したついでに、挨拶に立ち寄ったのだ。昨年式部が参籠した際に、少なくない御誦経の料を置いてきたので、いたく感謝しているのであった。
「そう言えば、昨年当山に御参籠の際に、物語をお書きになったとか」
几帳越しに式部が答える。
「いえ、物語というほどのものではございません。勤行の合間の暇つぶしに、つまらない文章を書き散らしただけでして、何も形にはなっておりません」
「しかし、当山の尼僧がそのように申しておりまして、東三条院様もお読みになったとかいうことで」
式部はしまったと思った。あの尼僧には固く口止めして、少なからぬ金品も渡しておいたのに、どういうことなのか? また、どこまで広まっていることか? 式部の不安は広がった。
「ほう、あなたは石山寺で何か面白い物語を書いたのですか?」
僧都からも式部からも見える位置に座っている宣孝が、式部の方を見て、質問した。
「ええ、あなた、勤行の合間の休息時間に、思い浮かんだつまらない話を、少しだけ書いて、東三条院様にもご覧に入れたのですが、その後、我ながらつまらない話だと、しみじみ思いましたので、捨ててしまいました」
捨ててしまったというのは、偽りだったが、書くのをやめたのは確かだった。道長には約束したものの、どうしても書く気が起こらず、そのままになっているのだ。その代わり、藤原氏の歴史物語の方は、少しずつ書き進めている。
「それは残念だな。私も見てみたかったな。どうだい、もう一度初めから書き始めてはくれないか」
「いえ、もうあれはいいのです」
「そうか……」
宣孝は残念そうだった。式部は宣孝の方を見て、また前を向き、視線を落とした。
(あれを、夫に見せるわけにはいかない。あれを見れば、道長とのことがすべてわかってしまう)
実際のところ、このことが、『源氏物語』を書き進めることのできない一番大きな要因であった。しかし、今、残念そうにしている宣孝を見た式部は、また、違う考え方もできるような気がした。自分は道長とのいろいろな出来事を『源氏物語』の中心にしようとしていたから、書き進めることができなかったわけだが、それらをとりあえず脇にやってしまえば、少なくとも自分とはまったく無縁の人たちの話が書けるのではないだろうか。それならば、夫にも見せられる。そう式部は思うと、夫にそう言ってみたくなった。
「あなたは、お読みになりたいのですか」
宣孝は愛嬌のある顔を式部に見せた。実際宣孝はいい人だった。年は父ほどであるが、気持ちの若いところがあり、式部にはいつも優しかった。女好きのところが玉に瑕だが、現代、一人の妻以外の女性とは一切関係を持たない男性などは、珍しかったから、仕方のないことであった。何しろ、式部が結婚した時には、すでに何人かの妻と多くの子がいたのだ。今さら、夫の女性関係について、うるさく言っても仕方がない。
「もちろんだよ。あなたは文章がとても上手だからね。きっと面白い物語なのだと思いますよ。どうだい、私を楽しませるためと思って、もう一度書いてみてくれないか」
「あなたがそれほどおっしゃるのでしたら、書いてみようかしら」
「本当かい!」
宣孝は大騒ぎして喜んだ。そこまで喜ぶことはないのにと思いながらも、その反応が式部に火を付けた。
「よろしければ、拙僧にも是非読ませてくだされ」
「もちろんです」
式部はその日から執筆に没頭した。
石山寺の僧都が訪れていた。兵部卿の宮の親戚で、たまたま宮を訪問したついでに、挨拶に立ち寄ったのだ。昨年式部が参籠した際に、少なくない御誦経の料を置いてきたので、いたく感謝しているのであった。
「そう言えば、昨年当山に御参籠の際に、物語をお書きになったとか」
几帳越しに式部が答える。
「いえ、物語というほどのものではございません。勤行の合間の暇つぶしに、つまらない文章を書き散らしただけでして、何も形にはなっておりません」
「しかし、当山の尼僧がそのように申しておりまして、東三条院様もお読みになったとかいうことで」
式部はしまったと思った。あの尼僧には固く口止めして、少なからぬ金品も渡しておいたのに、どういうことなのか? また、どこまで広まっていることか? 式部の不安は広がった。
「ほう、あなたは石山寺で何か面白い物語を書いたのですか?」
僧都からも式部からも見える位置に座っている宣孝が、式部の方を見て、質問した。
「ええ、あなた、勤行の合間の休息時間に、思い浮かんだつまらない話を、少しだけ書いて、東三条院様にもご覧に入れたのですが、その後、我ながらつまらない話だと、しみじみ思いましたので、捨ててしまいました」
捨ててしまったというのは、偽りだったが、書くのをやめたのは確かだった。道長には約束したものの、どうしても書く気が起こらず、そのままになっているのだ。その代わり、藤原氏の歴史物語の方は、少しずつ書き進めている。
「それは残念だな。私も見てみたかったな。どうだい、もう一度初めから書き始めてはくれないか」
「いえ、もうあれはいいのです」
「そうか……」
宣孝は残念そうだった。式部は宣孝の方を見て、また前を向き、視線を落とした。
(あれを、夫に見せるわけにはいかない。あれを見れば、道長とのことがすべてわかってしまう)
実際のところ、このことが、『源氏物語』を書き進めることのできない一番大きな要因であった。しかし、今、残念そうにしている宣孝を見た式部は、また、違う考え方もできるような気がした。自分は道長とのいろいろな出来事を『源氏物語』の中心にしようとしていたから、書き進めることができなかったわけだが、それらをとりあえず脇にやってしまえば、少なくとも自分とはまったく無縁の人たちの話が書けるのではないだろうか。それならば、夫にも見せられる。そう式部は思うと、夫にそう言ってみたくなった。
「あなたは、お読みになりたいのですか」
宣孝は愛嬌のある顔を式部に見せた。実際宣孝はいい人だった。年は父ほどであるが、気持ちの若いところがあり、式部にはいつも優しかった。女好きのところが玉に瑕だが、現代、一人の妻以外の女性とは一切関係を持たない男性などは、珍しかったから、仕方のないことであった。何しろ、式部が結婚した時には、すでに何人かの妻と多くの子がいたのだ。今さら、夫の女性関係について、うるさく言っても仕方がない。
「もちろんだよ。あなたは文章がとても上手だからね。きっと面白い物語なのだと思いますよ。どうだい、私を楽しませるためと思って、もう一度書いてみてくれないか」
「あなたがそれほどおっしゃるのでしたら、書いてみようかしら」
「本当かい!」
宣孝は大騒ぎして喜んだ。そこまで喜ぶことはないのにと思いながらも、その反応が式部に火を付けた。
「よろしければ、拙僧にも是非読ませてくだされ」
「もちろんです」
式部はその日から執筆に没頭した。