芥川

芥川
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 つつじの花と藤の花の間を通り抜け、池のほとりに出る。心地よい風に身を任せ、書き物の疲れをほぐす。牛車の音がする。止まった。中門廊あたりで話し声がする。頼範のようだ。女性の声もする。式部は胸が騒いだ。それを静めようと思って、手を池の水に浸した。やがて、侍女が近づいてきた。
「奥様、源頼範様が、妹様とごいっしょにお見えになりました。旦那様のお加減がまたよろしくないということで、奥様にお越し願いたいそうでございます」
「わかりました。すぐにうかがいます」
 式部が通ると藤の花びらが一斉に揺れた。
 宣孝は先月疫病にかかってからというもの、ずっと体調を崩していた。風邪のような症状だが、風邪よりもたちが悪かった。常陸が最初に咳をし始め、順々に邸内に広がった。式部もやられた。しかし、それほど重くならずに回復し、今はすっかり元気になった。宣孝は一時重症になったが、幸い持ち直した。しかし、その後もずっと病気が抜けず、よくなったり悪くなったりを繰り返している。
「それは大変でございますね。都では疫病が流行っていると聞きまして、宣孝様もかかっていらっしゃっているとうかがいましたが、そこまでひどいとは思いませんでした」
 式部の話を聞いて、頼範とその妹はしきりに心配している。
「そこで、可乃があの地域でよく使われる薬を差し上げたいと言いまして、お持ちしてみたのですが、こちらでも薬師に処方していただいているのではないかと思いますので、あまり無理にお勧めするわけにも参りませんね」
 可乃とは、満仲が浮御堂の付近に住む武士の娘に産ませた、頼範の腹違いの妹だった。満仲は母子ともに気に入っていて、時折通っては、大切に世話をしている。東三条院にも気に入られており、このたびは東三条院に仕えるため、頼範に連れられ、上京したのであった。東三条院邸に可乃を置いて、一人で宣孝の屋敷に行こうとしたら、どうしても『源氏物語』の作者に会いたいし、薬も自分で手渡したいからと言うので、可乃も連れて来てしまったと、頼範は申し訳なさそうに言った。
 式部は喜んだ。薬師の薬があまり効かないので、何かよい薬がないものかとあちこちに相談していたのであった。
 式部は受け取った薬を侍女に渡し、さっそく宣孝のところへ行かせた。
「それから、貫之の覚え書きをまたお持ちいたしました。岬の浮御堂の書庫にあるものはこれが最後でございます」
 式部はうれしそうに謝意を述べた。
「ところで、『源氏物語』の最初の巻を非常に面白く読ませていただきました」
 式部の顔が赤くなった。
「恥ずかしいわ」
「私も読ませていただきました。本当にとても面白かったです。あの続きはまだお書きではないのでしょうか。早くまた読ませていただきたいと思いまして」
 可乃が「桐壺の巻」の感想を長々と語りはじめた。式部はお世辞で言ってくれている部分が相当多いだろうと思いつつも、ほめられて、うれしかったというのが、正直なところであった。
「若宮のお母様は、優しい方なのに、弘徽殿の女御にあんなにいじめられて、本当にかわいそうです。若宮のおばあさまもすっかり落胆なさったでしょうね。旦那さんの遺言を果たして、娘をせっかく入内させたというのに」
 可乃が夢中になって登場人物に同情を寄せているのを見ると、物語の作者とは、何とも不思議な気持ちがするものだと式部は思った。
 頼範が可乃を連れて、東三条院邸に行くときに、式部は前回借りた貫之の覚え書きを手渡した。例によって、伝言を記した紙が挟んである。

  亥の刻 藤

 頼範は東三条院邸で、そっとその伝言を見た。亥の刻の少し前に、馬を宣孝邸から離れたところにつなぎ、邸内に入った。
 藤の花の下で式部が微笑んだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日