芥川

芥川
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 夜の藤がかすかな月光の中に揺れた。匂いがこぼれた。頼範は式部を抱き上げて、対の屋に上がった。
「可乃さんの薬が効いたみたいで、宣孝の具合がよくなりましたわ」
 頼範は微笑んだ。
「それはよかったです。あなたのお役に立つことができたと知ったら、可乃も喜ぶでしょう」
 茵(しとね)の上に式部を横たえると、頼範は訊いた。
「どうですか、貫之について、また何かわかりましたか?」
「ええ、伊勢とその後どうなったか、詳しく書いてありましたわ」
「それは興味深いですね。どうなったのですか?」
「今すぐに知りたいですか?」
 頼範が今すぐに知りたいことは、違うことだった。
「後にいたしましょう」
「そうしましょう」
 式部はそう言ったつもりだったが、言葉にはならなかった。
 子の刻になっても二人は話をしていた。どこかの窓から入ってくるつつじの香りが、柔らかく二人を包んでいた。
「では、伊勢は貫之の妻になったのですね」
「そうです。二人は、あの夜、石清水八幡宮から船で、命からがら逃げ出して、琵琶湖の浮御堂であなたの一族に保護されました」
「ええ、それはもちろん知っています」
 頼範は貫之のことについては、一通り知っていたから、式部の話がじれったく感じられた。貫之の覚え書きは非常に膨大であり、頼範が読んだのはその一部である。今回式部に渡した貫之の最後の覚え書きは、頼範が読んだ中には含まれていなかった。できれば式部には、自分の知っていることは繰り返さないでほしかったが、式部は頼範が何を読み、何を読まなかったか、知る術もないから、そう希望するのは無理であった。したがって、頼範は式部の話を辛抱強く聞くしかなかった。
「伊勢は貫之とあの浮御堂で、幸福な日々を過ごしたのです。私とあなたのように……」
「高貴な家柄の出で、文才のある伊勢と、武門の出で、歌の達人である貫之。その二人になぞらえるのは、半分正しいですが、半分間違いですよ」
「あら、どうして?」
「あなたについては、文句なく正しいですが、私については、武門の出であることしか当たっていませんよ」
「そんなことないわ。あなたは学問がおできになりますし、歌も素敵だわ」
「そうおっしゃっていただいて、ありがとうございます。お世辞とは存じますが、あなたからそのようにおっしゃっていただけるのは、光栄なことです」
「お世辞じゃないわ。本当よ」
 式部は貫之と伊勢の話を続けた。

 貫之と伊勢が石清水八幡宮から抜け出した後、醍醐天皇の近衛兵は道真の陣を取り囲み、道真を本殿に連行した。本来ならば、死罪に当たるところで、醍醐天皇がどうしたらよいか思案していたところへ、醍醐天皇の近衛兵から報せを受けた時平が到着した。時平は芝居で手を打つのが好きだった。世人の服装が華美になったのを抑えるため、自分がわざと華美な服装で参内し、醍醐天皇に厳重注意を受け、そのまま自宅に謹慎するということがあったが、これも時平が醍醐天皇に持ち掛けた芝居であった。時平は、石清水八幡宮に行幸することを聞いた道真が、その警護に当たるため、自らの軍を率いてお供しようとしたのだという筋書きを説明した。醍醐天皇もそれを承知し、道真は喜んだ。だが、一応、こういう状況になってしまったからには、所持品の検査は必要であろうと醍醐天皇に言われ、それを行わなければならなくなった。道真は真っ青になり、汗をだらだらと流した。道真の衣服の隠しから書状が出て来た。宇多法皇の字であった。

  斉世(ときよ)こそ後を継ぐべけれ。

 斉世親王は道真の婿である。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日