芥川

117
式部は話し疲れて、声がかすれた。体をずっと窓から流れてくる外気にさらしていたから、冷えてきた。悪寒もする。
「ちょっと、疲れたわ」
頼範は寒そうにしている式部の体に衣をかぶせた。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
「すっかり長い間、話をさせてしまいまして申し訳ございませんでした。もうお休みになった方がよろしいでしょう。私もこれで戻ります」
暗い中、衣服を身に着けて、頼範が出るとき、式部が咳をした。
月の中ごろになっても、宣孝の調子は完全によくならなかった。よくなりかけると、またぶり返し、また、よくなりかけると、ぶり返す。そんなことを繰り返していた。おまけに、あの夜以来、式部まで、寝込みがちになった。もっとも、邸内にはまだ幾人も病人がいた。邸内だけではない。京の都は病人であふれかえっていた。
車が到着した。明るい女性の声が、陰気な邸内に響きはじめた。可乃だった。頼範と一緒だ。取り次ぎの者が事情を話すと、残念そうな様子で、車に戻りかけた。ところが、可乃と聞いて、顔を見たくなった式部が、自分から中廊門までやって来た。
「奥様、寝ていらっしゃらなくて、よろしいのですか?」
その日は、体の調子が少しよくなってきていたのだった。
「少しぐらいなら、大丈夫だと思うわ。でも、可乃さんと頼範様にうつしたら大変だから、やはり、やめとこうかしら?」
「私なら大丈夫です。体だけは丈夫ですから」
可乃が明るく言うので、式部は妙に納得して、結局、部屋に通すことにした。
「奥様、いつからご病気なんですか?」
可乃が心配そうに訊いた。
「先日、可乃さんが来られた辺りかしら?」
「まあ、私がいけなかったかしら? でも、私は全然何ともないし、変ねえ?」
「違うわよ。元々、病気にかかっていたのだし、それがぶり返しただけだと思うわ。このうちは、今、病人ばかりなのよ」
「みなさん、ひどくお悪いのかしら?」
「いえ、みんな、ほとんど治りかけよ。今は、私が一番悪いと思うわ。でも、それももう大丈夫そうよ」
「念のために、また、お薬をお持ちいたしますわ」
「それは、助かるわ。こちらの近所に用事があるときの、ついでで構いませんので、ぜひお願いするわ」
話は『源氏物語』のことに移った。
「『帚木』と『空蝉』、とても面白かったです。ご病気なのに、よくお書きでしたね」
「文机に座って、読み物をしたり、書き物をしたりする分には、何でもないんですよ。でも、あの話のどこが面白かったのかしら」
光源氏が受領階級の妻と無理矢理関係を結ぶ話だった。光源氏が道長、受領が宣孝、その妻が自分なのだが、それとはわからないように作っているので、読む人が、こういう話は、現代、あちこちでいかにもありそうなことだと勝手に思ってくれるようである。宣孝も何とも思わなかったようだし、道長でさえ、自分自身の悪行が書かれていることには気付いていないようだった。
「私もあんなふうにどこかの貴公子に突然口説かれたらどうしようって、本気で心配しちゃいました。でも、光源氏様って、本当に優しい方ですね。一度関係した女性にたくさんの贈り物をしたり、その後も気にしてくれて、お手紙をまめに送ってくれたりしてくれるなんて、なかなか今の男の方にはおできにならないような気がしますわ」
何と甘いことだろうと式部は他人事ながら可乃のことが心配になった。光源氏をこの世にはあり得ないような理想的な男性として描いたから、そんな甘いことを言うのだろうと思った。きっと自分もそんな理想的な男性と会えると思っているのだろうが、現実はそんなに甘くない。しかし、さすがにそのまま言うわけにもいかなかった。
「あれは物語の中のことですから、現実には可乃さんがおっしゃる通り、そういう男の方はなかなかいないでしょうね」
「旦那様はお優しい方でございましょう?」
式部は曖昧に微笑んだ。
「ちょっと、疲れたわ」
頼範は寒そうにしている式部の体に衣をかぶせた。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
「すっかり長い間、話をさせてしまいまして申し訳ございませんでした。もうお休みになった方がよろしいでしょう。私もこれで戻ります」
暗い中、衣服を身に着けて、頼範が出るとき、式部が咳をした。
月の中ごろになっても、宣孝の調子は完全によくならなかった。よくなりかけると、またぶり返し、また、よくなりかけると、ぶり返す。そんなことを繰り返していた。おまけに、あの夜以来、式部まで、寝込みがちになった。もっとも、邸内にはまだ幾人も病人がいた。邸内だけではない。京の都は病人であふれかえっていた。
車が到着した。明るい女性の声が、陰気な邸内に響きはじめた。可乃だった。頼範と一緒だ。取り次ぎの者が事情を話すと、残念そうな様子で、車に戻りかけた。ところが、可乃と聞いて、顔を見たくなった式部が、自分から中廊門までやって来た。
「奥様、寝ていらっしゃらなくて、よろしいのですか?」
その日は、体の調子が少しよくなってきていたのだった。
「少しぐらいなら、大丈夫だと思うわ。でも、可乃さんと頼範様にうつしたら大変だから、やはり、やめとこうかしら?」
「私なら大丈夫です。体だけは丈夫ですから」
可乃が明るく言うので、式部は妙に納得して、結局、部屋に通すことにした。
「奥様、いつからご病気なんですか?」
可乃が心配そうに訊いた。
「先日、可乃さんが来られた辺りかしら?」
「まあ、私がいけなかったかしら? でも、私は全然何ともないし、変ねえ?」
「違うわよ。元々、病気にかかっていたのだし、それがぶり返しただけだと思うわ。このうちは、今、病人ばかりなのよ」
「みなさん、ひどくお悪いのかしら?」
「いえ、みんな、ほとんど治りかけよ。今は、私が一番悪いと思うわ。でも、それももう大丈夫そうよ」
「念のために、また、お薬をお持ちいたしますわ」
「それは、助かるわ。こちらの近所に用事があるときの、ついでで構いませんので、ぜひお願いするわ」
話は『源氏物語』のことに移った。
「『帚木』と『空蝉』、とても面白かったです。ご病気なのに、よくお書きでしたね」
「文机に座って、読み物をしたり、書き物をしたりする分には、何でもないんですよ。でも、あの話のどこが面白かったのかしら」
光源氏が受領階級の妻と無理矢理関係を結ぶ話だった。光源氏が道長、受領が宣孝、その妻が自分なのだが、それとはわからないように作っているので、読む人が、こういう話は、現代、あちこちでいかにもありそうなことだと勝手に思ってくれるようである。宣孝も何とも思わなかったようだし、道長でさえ、自分自身の悪行が書かれていることには気付いていないようだった。
「私もあんなふうにどこかの貴公子に突然口説かれたらどうしようって、本気で心配しちゃいました。でも、光源氏様って、本当に優しい方ですね。一度関係した女性にたくさんの贈り物をしたり、その後も気にしてくれて、お手紙をまめに送ってくれたりしてくれるなんて、なかなか今の男の方にはおできにならないような気がしますわ」
何と甘いことだろうと式部は他人事ながら可乃のことが心配になった。光源氏をこの世にはあり得ないような理想的な男性として描いたから、そんな甘いことを言うのだろうと思った。きっと自分もそんな理想的な男性と会えると思っているのだろうが、現実はそんなに甘くない。しかし、さすがにそのまま言うわけにもいかなかった。
「あれは物語の中のことですから、現実には可乃さんがおっしゃる通り、そういう男の方はなかなかいないでしょうね」
「旦那様はお優しい方でございましょう?」
式部は曖昧に微笑んだ。