芥川

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 四月二十日ごろのことである。
 可乃が宣孝邸を訪れた。可乃は一つだけ薬を渡した。
「東三条院様が、奥様のご容態をとても気にかけていらっしゃいました。これは東三条院様が、奥様にということで、預かって参りました。よく利く薬ですが、強いので、飲み始めはかなり苦しくなるそうです」
「まあ、ありがとうございます。これぞ地獄に仏でございます。東三条院様には、くれぐれもよろしくお伝えください」
 式部はその薬をとても喜んだ。ここのところ、体が難儀で、もう長いことないのではないかと考えるようになっていたのだ。邸内でも若い侍女がこの病で死んだ。近所でも、死者が増えている。都全体で数えたら、一体どのくらいになるものか、見当も付かないほどである。逆に、宣孝の方は回復の兆しが見えてきた。最近は、庭園の散策も、日に二、三度はしている。式部は寝込んでいる。本当は可乃も部屋に入れたくなかったのだが、どうしても訊いておきたいことがあったので、無理にそうしたのである。
「ところで、頼範様は、今日は見えないの?」
 式部はさりげなく訊いた。
「それが急に信濃の掾(じよう)に任命されまして、昨日赴任いたしました。そう、そのことも奥様にお伝えしなければと思って、急いで参ったのでございます」
「でも、春の除目はもうとっくに終わったじゃない?」
「何でも、空席ができたとかで……。臨時の除目が行われたそうでございます。それに信濃は我が清和源氏の拠点の一つとかで、父の満仲が強く兄を推挙したそうでございます。私にはよくわかりませんが、東国をさらに固めるために兄が必要なのだそうでございます」
「あら、頼範様も期待されているのね。何にしてもそれはめでたいことだわ」
「これは兄からです」
 可乃は箱を手渡すと部屋から出て、他の部屋で待機した。
 箱を開けると鏡が出てきた。

身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡のかけは離れじ

 頼範の手紙は涙でぼやけてよく読めなかった。
「常陸」
 常陸がすっと入ってきた。常陸はすでに式部の腹心の侍女であった。道長との意思疎通の手段であり、宣孝の様子を知る手段でもあった。
 硯箱をと言おうとしたが、常陸はすでにそれを手にして、式部の傍らに置いていた。
「ありがとう」

別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし

 式部は『白氏文集』に手紙を添えて、常陸に渡した。頼範が聴きたがるので、式部はよく白居易の詩を吟詠した。これからはそれもできないので、贈ることにしたのだ。感想を送ってほしいと書き添えた。
 可乃が帰り支度をして、中廊門に歩いて行く気配がしたので、式部はけだるい体を押して、見送りに行った。
「奥様、大丈夫ですか?」
「お兄様はお見えにならなくても、可乃さんは、きっとこちらへお立ち寄りになってね」
 可乃は明るい笑顔で答えた。
「もちろんですよ。お兄様の消息もお伝えいたしますわ」
 部屋に戻ると、薬がなかった。常陸に探させていると、宣孝が入ってきた。
「どうしたんだ?」
「あなた、東三条院様からいただいた薬がないのよ」
「あれは俺のためにもらったんじゃなかったのかい? ごめんよ、もう飲んじゃったよ」
「何よ、今はあなたより私の方が苦しんでいること、わかってるくせに。もう! あれ一つしかないのに」
「ごめん、ごめん」
 その夜から宣孝が苦しみ始めた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日