すいす物語

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  二〇二二年五月

 仕事が終わり、駐車場まで歩いた。ミライの横顔が見えた。助手席側から後ろに回り、運転席まで、ざっと目で見るのが習慣になっていた。乗る前と降りたときにそうするようにしている。なにか異変があれば、その解決の可能性が高まると思うからだ。
 一度、助手席側の下部になにかこすり傷のようなものがあるのを見つけたことがある。拭いても消えないので、残念に思っていたが、あるとき、車専用のシートでよく拭いたら、きれいに落ちた。
 助手席側から後ろに回った途端、一瞬自分の目を疑った。バンパーに大きな傷ができていたのである。信じられなかった。いや、信じたくはなかった。しかし、その傷は現実のものであった。
 新しい、買ったばかりのものに、傷ができる。今までにいったい何度そういう経験をしてきただろうか。これは人間の宿命である。だれも免れることはできない。しかし、そんな一般的な真理について深く思索する余裕はこのときなかった。
 職場の人に相談し、警察に電話をし、保険屋に電話をし、ディーラーに電話をした。
 解決は、それほど難しいことではないと思った。なぜなら、ドライブレコーダーが付いているからだ。映像を見れば、バンパーにぶつかった車がすぐにわかるだろうと思った。しかし、現実は、いつでもそうだが、頭の中のシミュレーションのようには、簡単にはいかない。
 捜査に来てくれた警察官は二人だった。一人は、傷を調べたり、後ろの車を調べたりしてくれた。一人は、助手席に座って、ドライブレコーダーの映像を調べていた。
 後ろの車は傷が多かった。後部のナンバープレートが傷だらけなので、もしかしたらと思っていた。そのうちに持ち主も登場したので、傷を調べていた警官は、事情聴取を始めた。しかし、結局、ミライのバンパーの傷がある位置に対応する傷がないので、相手ではないということであった。考えてみれば、ぶつけた車の後ろに平然と駐車しておくぼんやりした人などあまりいないものである。立派な人なら、すぐに相手を探して、運転者としての当然の義務を果たすであろうし、立派ではない人なら、その場から立ち去ってしまうであろうから。
 ドライブレコーダーを調べていた警官は、望んでいる映像が見つからないと言った。あとで自分でも見て、もし手掛かりがあれば、警察に連絡してほしいと言って、立ち去った。
 ディーラーは相手が見つからなくても、無過失が適用されるだろうと言ってくれたが、そのあとまた電話をくれ、保険屋の話では、やはり相手が見つからないと無過失にはならないと説明した。
 現実というものは、いつでも個人に対して厳しいものではあるが、私は相手を見つけるために、一人で調べなければならなくなった。(2022/04/29)
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 すいす物語
◆ 執筆年 2022年2月5日~